ルキノ・ヴィスコンティ『山猫』(1963)

主演:バート・ランカスターアラン・ドロンクラウディア・カルディナーレ、リナ・モレリ、パオロ・ストッパ、ジュリアーノ・ジェンマ、オッタヴィア・ピッコロ
19世紀後半のイタリア統一戦争時代のシチリア。名門貴族・サリーナ公爵は、貴族支配の時代が終焉を迎えることを悟っていたが、気丈に振舞っていた。サリーナ公爵が実子よりも目をかけていた甥のタンクレディは先を見据えて革命軍に参加し、やがて新興ブルジョワの娘と恋に落ちる。歴史的変革の時を迎えたイタリアの貴族社会の栄華と悲哀を描いた一大抒情詩。シネマヴェーラ

ガリバルディ両シチリア王国を征服したのち、1861年、カヴールがイタリア統一国家を樹立。貴族の没落を予感するサリーナ公爵の物語。
サリーナ公爵が上院議員の誘いを断るシーン以降、とくに舞踏会の場面が素晴らしい。延々とつづく舞踏会は退屈で、貴族たちの自慢話は空々しいが、永遠に続くかのように感じられる舞踏会(貴族社会)も、いつかは終わりを迎えるのである。だからこそ倦むように続く舞踏と音楽が儚くも美しく感じられてくる*1
サリーナ公爵の亡びの美学は、退廃美の極致。貴族的自己顕示欲以外、何の精神的実質も感じられないタンクレディの造形も興味深い*2ダンディーのhabitus化。つまりもはやダンディーではない。欠陥人間でしかない)。ただし、『ルードヴィッヒ』同様、ものすごく長ーく感じる映画。

*1:そこでもっとも輝いているのがアンジェリカというのは皮肉であるが、もちろん意図的な演出であろう。

*2:貴族の実質は失われ、形式のみが残存しているに過ぎないことへの批評がある。逆にアンジェリカは、形式はないが実質は備える新興階級に属する。このように考えるなら、サリーナ公爵は、(滅びの)美学の次元で、実質と形式の(かろうじての)止揚を図っているのだと理解できる。