黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)

脚本:マックス・マニックス 黒沢清 田中幸子 プロデューサー:木藤幸江 ヴァウター・バレンドレクト 音楽:橋本和昌 出演:香川照之 小泉今日子 小柳友 井之脇海 井川遥 津田寛治 役所広司

見事な傑作。
一見して露骨なほど図式的に「江藤淳的主題」が提示される。アメリカの庇護のもと国際関係のパワー・ポリティックスを免除された戦後日本は、リアルな現実との対峙を避け、経済的繁栄を謳歌した。戦後システムはそのような虚妄の上にあり、イデオロギー対立すらも「ごっこ」の域を超えるものではなかった。香川照之小泉今日子の営む家庭も、明らかにそうした「ごっこ」として描写される。
しかし問題はその先にある。「ごっこ」に嫌気が差した長男は、母親の小泉今日子に「お母さん役」をやめるよう諭し、自らもアメリカ軍に志願する。だがパワー・ポリティクスの最前線であるアメリカ軍に入隊し、世界平和のために主体性を発揮する行為が、果たして「ごっこ」からの離脱を約束する行為だといえるのか?
答えは否定的なものでしかない。「おかあさん役」からの離脱を母親に説く長男は、アメリカへと出発するバスの中で、早くも「兵隊きどり」になっている*1。この滑稽な姿は、冷戦体制が終結した現在、あらゆる行為が「ごっこ」に包摂されてしまうという、内閉的な思想状況を示唆している*2
ごっこ」ではない「リアルな現実」など、もはやどこにも存在しない。江藤淳が「ごっこ」の先に見た「日本」が、明らかに幻想的なものでしかなかったことと、これは相即的である。
香川と小泉の営む家庭生活。それを維持するのが極めて高コストであり、息苦しさを伴うことは、当事者にとってさえ「ごっこ」が自明であるという「徒労感」に根ざしている。家の異様な間取りは象徴的だろう。家族を演じる場としての食卓に辿りつくまでには、玄関からすぐ、異常な段差を超えねばならない。他方、団欒の場としてのリビングルームも、もはやその機能を果たしていない。家族ごっこから解放され、段差を下ったあとでは、香川も小泉も土気色の表情となり、極度の疲労に襲われている。
「真実」は存在しない。すべてはフェイクである。すべてがフェイク(=ごっこ)であることの徒労感、内閉的な息苦しさに我々は耐えなければならない。
…という「教訓」がすぐさま浮かぶわけだが、じつはこれが終わりなのではない*3。フェイクでしかないという「内閉」にも、時として「真実」は宿る*4。いかがわしいニセモノである映画に「真実」が宿るように*5。消失しながら流れる音楽に「真実」が宿るように。
小泉今日子が海辺で過ごす時間は、極めて音楽的な美しさに満ちている。恐ろしくいかがわしいピアノの演奏シーンには、すばらしいドビュッシーの音色が重ねられる*6。選択された音楽がドビュッシーであることは明確なメッセージと言えよう。象徴主義的な「真実」を詩的に生きることが、この作品に見出しうる真の思想的教訓にほかならない。

*1:敬礼する長男の姿を見つめる、小泉今日子の冷たい眼差し!(「軽蔑」の念すら認められる。)

*2:ネオコンのマンガ的世界観!

*3:だから「江藤淳的主題」には「否定」の「否定」が加えられている。つまり二度、否定されている。こうしてフェイクが肯定される一方で、「いかがわしい映画が真正の快楽を生む」という別方向のメッセージが、ここに合流する。なお、「江藤淳的主題の否定の否定」は「アメリカの肯定」を意味するのではないか、という微妙な問題が発生するが、これについてはとりあえず留保(笑)。

*4:バロック的現実感覚。

*5:じっさいどのシーンを見てもクスクス笑える。変だし。でも感動的なんだよな。

*6:「音が重ねられているいかがわしさ」は誰の目にも明らか。でもこれは映画の主題と直結しているわけですね。