最近普遍論争について復習してみたのだが、個と普遍のプライオリティという問題構成ではなく、「個物における普遍者の分有をどう理解するか(個に汲み尽くしえないもの、事物における普遍)」の問題として捉えた方がよい、というのがさしあたっての結論であり(神学と論理学の違いとかも案外重要)、しかし今日読んでいた本の中に、聖体(パンとぶどう酒)がキリストの血と肉に「全質変化」するという正統教義を批判したためにウィクリフは厳しい批判にさらされた、という叙述があって、案外こういう具体的な現象を考え合わせた方が良いのでは、などと思った。