近代化に起因する生活慾の昂進は、道義慾を崩壊せしめた。信仰の支えのない日本において道義的たらんと欲する者は、防衛的な自意識の病をこじらせたあげく、結局は生活慾の前に拝跪するか、そのことを認めず自己正当化の論理をでっち上げるか、偽悪的な振る舞いに及ぶかしかない。あるいはどこまでも自意識をこじらせつづけるしかない。

代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互いに接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促したものと解釈していた。またこれをこれら新旧両慾の衝突と見傚していた。最後に、この生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。
この二つの因数は、どこかで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力において肩を較べる日の来るまでは、この平衡は日本において得られないものと代助は信じていた。そうして、かかる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めていた。だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日ごとに法律に触れない程度において、もしくはただ頭の中において、罪悪を犯さなければならない。そうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互いに黙知しつつ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、また加えらるるにも堪ええなかった。(『それから』126-127)

現代はどうなっているかというと、生活慾の方はだいぶ満たされてきたので、生活慾の論理と道義慾の論理がぶつかる、という苦しみはなくなってきた。ボランティアとか寄付とか、いくらでも道義慾は満たせそうに思えるし、汚いことをやらなくたって別に生きていけそうな感じもある。とすると、この「二つの因数」は平衡に達したといえるのだろうか。自意識と信仰の問題はどのように存在しているのだろうか。