篠山紀信のメモ

美術手帖』(4月号)のヌード写真を眺めていて気づいたのだが、篠山紀信というのは偉大な写真家であるらしい。

会田(誠) ……でも篠山さんは、エロティックな部分を強調しつつ、とても健康的でもありますよね。ヌード写真をまとめて見せていただいていると、どれも健康への賛歌という気がしてくる。
篠山 それはインタビューしてくれた斎藤環さんにも言われたね。こんな健康な人のこと、誰も論じようとしないって。不健康だから分析の対象として面白いわけなんだっていう。(67)

篠山紀信は健康すぎて評論の対象にするのが困難、と皆が判で押したように指摘している。椹木野衣も同様の指摘(「イメージによるクラスター爆弾 終着の浜辺で、そのとき写真は……。」)。

……批評は、原理的に自己言及性を持つ。つまり、近代以後の作品に生じた自己意識が批評という営みなのだ。それが分業すれば作家と批評家となるが、それは職業的なものでしかなく、近代的な作家はかならず批評家としての側面を持つ。これは批評家も同様で、近代的な批評家はいずれ、批評する無根拠に晒されて創作に介入せざるをえない。この循環(批評するわたし=わたしが批評する)には、かつての神のような外部からの身分保障が永久にないから、ほっておけば急速に閉塞し、精神そのものを破壊する。作家であれば制作ができなくなり、批評家であれば精神に異常を来す。

中平〔卓馬〕はある意味、この〔循環の原理との〕通底を絶え間なく露呈させるような写真家だったし、だからこそ真の意味で批評的=臨界的だった。問題は意識の自己言及性が往々にして自己否定・自己解体の回路に入り込むことだ。中平も同様に写真への意識の介入を断つために非人称的な「図鑑」を志向するようになる。しかし注意すべきなのは、意識を排そうとするこの志向性自体が、実際にはさらに強固な意識の産物だということだ。……(80)

「ところが、最初から意識の志向性など介在していない篠山のような写真では、実は「図鑑」的なものはとうに実現されている。中平が気づいてしまったのは、そのことだった。」「…図鑑という理念で中平が自己・批評的に実現しようと考えた写真の絶対零度を、篠山は資本主義の圧倒的な速度と消費の渦中に乗ることで、いともたやすく実現してしまった。」