神崎繁『フーコー』(NHK出版)メモ

ベンヤミンバロック解説。ギリシャ悲劇は理性と感情の対立葛藤を基本とするが、セネカのラテン悲劇においては「理性的な計略と過剰な情念の噴出」が両立する(76)。

デカルトの二元論だけがバロック的なのではない。精神と身体の干渉に関する学説の結論として、受苦〔情念〕の理論が最大の問題となる。というのも、精神は、それだけなら純粋でおのれの理を守りとおす理性であるが、しかしその精神を外界と接触させるのはただ一つ、身体の感応である以上、いわゆる悲劇的葛藤などよりも精神が受ける苦痛の暴力こそが、激しい情動の基盤と見なされて当然だったからである。(ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』353、76)

デカルトによるストア派感情論の解説。(←『省察』と全然違う)

われわれのうちにはただ一つの精神しかなく、この精神はそのうちに如何なる異なる部分ももたない。同じ感覚的なものが理性的なのであり、すべてその欲求が意志なのである。……以下略(「四体液説」に基づけば精神の二元論は錯覚)。(『情念論』)

ニーチェアフォリズム

「意志の弱さ――これは誤ってとられかねない比喩である。というのも、意志なるものはなく、したがって意志に強いも弱いもないからである。衝動が複数あり、しかもしれが分裂しているとき、それらのあいだの体系の欠如が、結果として「弱い意志」となり、何らかの一つの衝動が優位にあるときそれらは協調して、結果として「強い意志」となるに過ぎない。――前者にあっては、振幅運動と重心喪失ということがあり、後者にあっては、方向の精確さと明瞭さがあるだけである。(『力への意志』第四六節)

デカルト省察』の「対象的事象性(realitas objectiva)」。この場合、objectは「思考内容」「感覚内容」「欲求内容」という原義(「客観」なのではない)。ここから「神の存在論的証明」が導かれる。「表象」をささえる「神」は、不在のまま画面全体を支える『ラス・メニナス』の「王」の位置にある(人間の不在)。
デカルトからカントへ。「古典主義時代の思考にとって、有限性というものの内実は、ただ無限性の否定だけであった。ところが、一八世紀末に形成される思考は、有限性に積極的なものの力を付与する。」(35)。有限である人間が、その有限性において無限なるものに触れる(経験的=超越論的二重体)。元ネタはハイデガー「世界像の時代」(40)。
人間の不在/人間の終焉。独断論の微睡み/人間学の眠り、ドン・キホーテ/サド、「ラス・メニナス」/「フォリー・ベルジェール劇場のバー」。古典主義時代の「表象の世界」を打ち破る、「生命力の横溢する欲望的主体の出現」(84)。
方法論の問題。カッシーラーパノフスキー)vsハイデガー(ダヴォス対論)。メルロ=ポンティーを介して新カント派側につきつつ、「有限性」を分析するフーコー(微妙?)。
「自己知」と「自己への配慮」の区別。前者はプラトン的、キリスト教の告白、フロイトの「過去志向的な」夢解釈(102)などで、これが批判される(「自発的な監禁」(85))。後者はストア派的なものの考え方で、これによって自己を鍛錬するのがよい。
キュニコス派的パレーシアー(慣習の破壊、スキャンダル、自己との内的闘争)が素晴らしい。これがキモ。

それは、人間自らのうちに「狂気」や「獣性」という限界を見つめることによって、かえってその尊厳を確認する一つの精神の運動である。さらに、相手の自尊心に対して挑発を行い、遊戯的ななかにも、戦闘的・闘争的な要素を含む対話を重ねることで、相手のうちにも自ら自身のうちにもこのような闘争を内面化する「自己との闘争」の修練の機会を提供することである。(118)