ゲーテ『イタリア紀行』

個人的なことだが、昨年(2004年)は、「わたしにとってのイタリア年」であった。事情があって立ち消えになったものの、姉の海外挙式にかこつけて、南ドイツ(ミュンヘン)からイタリアへと抜ける旅を企画し、それをきっかけに歴史・文化・思想などを勉強しようと思い立ったのである。
もちろん、結局は行くことができなかったわけで、それは良かったというか、残念というか、なんとも微妙な所だったが(費用がかかるし、忙しかったし)、しかし、このような関心を抱いたことで、得たものは非常に多かった。モーツァルトの『魔笛』『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』を聴いてみたり、イタリアについてだと、ヴェルディなんかを聴いてみたり。まあ、ヨーロッパに行くだけなのに、ちょっと回りくどい勉強の仕方ともいえるが、そうやって愉しみが広がったわけだ。
イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)
で、その興味対象のひとつに、ゲーテ(1749−1832)もあった。もちろん、その鑑賞の程度はほんの入り口にも差しかかっていない程度であるが、たとえば、『イタリア紀行』なんかは、就寝前の読書に最適だったりした。ワイマール公国の最高顧問官にまで登りつめたゲーテは、1786年イタリアへと突如旅立つのだが、そこで綴られた紀行文は、ドイツってのはやっぱり陰気な所なんだろうな、と感じさせるほどに、開放的で快活で、もちろんその文体は表面上は即物的かつ観察的であるけれど、それだけに終わらない精神性が備わっているのである。
ゲーテさん こんばんは
しかしゲーテより以上に私にとって感銘を受けたのは、池内紀ゲーテさん こんばんは』(こっちのほうが分かりやすい)。池内氏によると、『イタリア紀行』は、ゲーテが旅行中に出した手紙にもとづいて生まれた作品だという(同時代人だとモーツァルトの手紙も有名)。

手紙はかつては私信のかたわら公開書簡といった役割をもっていた。情報を伝えるミニコミであって、受け取った側も私有せず、さっそく夜のサロンなどで公開した。友人知人に披露する。手紙の中身が口づたえにひろまった。書き手もまた、それを意識して書いた。一つの手紙は二つの目だけではなく、数十の目を想定して書かれていた。

たしかに、どのような文章であっても、誰かに語りかけている以上は、他人の目を意識しているわけである。そういう意味で、こういう公開性というのは、文章を書く動機にもなるし、創発的に自分を再発見するきっかけにもなるのだろう。ブログも同じかもしれない。もちろん、そういう自分探し、無際限な自己承認欲求が、醜悪なものとなる場合もあるはずだが、ネット上に文章を公開するということにも、実際、そうした長所があるのかもしれない。
ちなみに全部読んだわけではないけれど、私が気に入っている『イタリア紀行」の情景は、ゲーテがある町の城跡を写生していたときに、民衆からスパイ疑惑にさらされる場面。ゲーテは雄弁をふるって、その事態から抜け出すのであるが、その自信に満ちた様子といい、演説の最中、城壁が夕陽に染まる描写といい、なんともいえず素敵。岩波文庫だと上巻だったと思う。