英語のはなし

起きてから何気なくテレビのスイッチを入れると、フジテレビ「特ダネ」で、「海外親子留学」特集というのをやっていた。じつは昨晩、茂木弘道文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ、2004)読んだところだったので、つい興味が引かれてしまった。
本書の主張は簡明で、「小学校からの英語教育は無駄」、「英語を勉強すれば役に立つというのは幻想」といったもの。なかでも、小学校および中学校の会話重視型英語教育に警鐘をならしており、まったくもって正当な議論が展開されていた。むしろ、いまさらこんなことをいわなくてはならないのが情けない。
言わずもがなだが、著者が主張しているとおり、日本語は「ある意味でもっとも国際的な言語」。こんな翻訳大国に住んでいれば、ほとんどの国の本が、簡単に読めてしまう。ところが、世の人々は、日々の生きる意味に手ごたえを得られないせいか、「英語さえできれば世界が広がる」、「自分はだめだったが、せめて子供は」といった代償的な満足を得ようとするらしい。思考停止もいいところ。お前が英語できたって、中身がないんだから意味ねえじゃないか。
テレビでは、夫を置いてきぼりにして、オーストラリアに子供と語学留学をしてしまった愛知県一宮市在住の主婦がドキュメントされていた。オーストラリアの公立学校に通わせるために、子ども二人で120万円、ほかに母親の学費など、教育費は多額。生活費などは切り詰めているそうだが、これでも日本のインターナショナルスクールに入学させるよりも安くつく、と自分を納得させている。ひとり日本で待つ夫は、「子供には広い視野をもった人間になってもらいたい」と語る(AERA風)。
アホか。たしかに子供は、6歳くらいで耳の感受性期(だったか、とにかく脳の神経細胞が急速に成長する時期)を迎えるらしく、その意味で、「英語は子供から」なんてフォークロアが説得力をもってしまう事情はあるのだが、実際のところ、インターナショナルスクールに通おうがどうしようが、子供は大きくなれば、それらをきれいさっぱり忘れてしまうのが通常なのである。本書でも述べられているように、小学校三年までの子供の場合、帰国子女であっても、中学になるころにはさっぱり蓄積が消えてしまう(らしい)。別の本でも読んだが、ヘタに英語になれた結果、英語と日本語のチャンポン言語をしゃべりはじめる子供も出現しつつある(らしいよ)。
小学校の英語教育、中学校の会話重視教育がいかに「コミュニケーション幻想」にとらわれたものであり、地に足の着いた教育実践となりえていないかは、ここでは問わないでおこう。だが、おバカな主婦のせいで、子供にバカが伝染るのをまざまざと見ると、「これは何とかしなきゃいけないんじゃないか、思想統制でもって『英語禁止令』みたいなお触れを出さないとだめじゃないか」などと真剣に考えてしまう。私は言いたい。漢字覚えろ、計算しまくれ!教育勅語を暗記するほうが、百万倍マシ!キィー!
私見を披瀝。小学校でやるべきなのは、漢字と計算の反復学習。「外国人と英語ごっこ」なんて、優先順位も下の下。本書の主張どおり、「使える英語」をめざすのであれば、ちょっとやそっとじゃ使えるようにはならないとの認識のうえで、発音の徹底的なトレーニング、ボキャブラリーの倍増、などの現実的な実践改良案を考えるべきだ。根拠のない幻想を煽るだけ煽り、結局もうかるのは英語塾だけというのは、人材とコストの損失でしかない。希望もないのに希望があるかのように甘言を垂れ流すというのは、昨今憂うべき風潮であろう。
なお、茂木本では日本の英語力が落ちているデータとして、TOEFLの試験結果の各国比較が引用されていたが、あれはデータ選択のミスの可能性がある。中国とかインドよりも日本の平均点が低いのは、おそらく英語試験ブームによる受験者数が、日本においてのみ突出しているせいだろう。バ●が大挙して英語の試験受けに来るんだから、そりゃ平均点は下がるわな。