『お金に「正しさ」はあるのか』と『精神疾患とパーソナリティ』

さて、悔しさを忘れるために、読書で気を紛らわす。ロバート・グレイヴズ抄訳『ギリシャ神話』(PHP新書)、仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』(ちくま新書)、フーコー精神疾患とパーソナリティ』(ちくま学芸文庫)を並べて、三冊同時読み(こういう同時並行だけは、得意)。
まず『ギリシャ神話』だが、全体が27章からなっていて、一気に読めてしまう。簡潔な文章なのに、断片的に知っているエピソードが、あぁ、こういうつながりだったんだな、と分かってくるので、すごく面白い。会話文をうまく利用したストーリー化が施されていて、文章(翻訳?)も上手である。
フーコーは、中山元による解説が充実していたので、それを中心に、本文にときたま返りながら読む。この著作は、フーコーにとっての処女作で、かれが精神病院で研修医として働いていたときの問題意識が濃厚に反映されている。フーコーは、当時のフランスの精神医学が疑似科学化をめざしていたことにつよく違和感をおぼえ、精神分析の方法論の批判的検討、およびそのような学問を成り立たせている認識論的な地平への解明を試みた。そういうわけで、これは『狂気の歴史』以降の出発点となった作品であるともいえそうだ。
構成についてだけちょっとだけ論評しておくと、一番の仮想敵となっているのはフロイト、ビンスワンガーで、それを批判する立脚点をあたえているのがハイデガーである。フーコーは、精神科学の「退行論」(精神病者は幼児期に退行していると見る立場)、「発生論」(個人史のなかに狂気の萌芽を見いだそうとするフロイトの立場)を批判し、人間の意識メカニズムをモデルとして説明しようと試みるビンスワンガーの「現存在分析」に一定の評価をあたえる。しかし、ビンスワンガーの立場では、患者は「共通の体験」(公共性)から脱落した存在であるとする臨床的な前提があって、これが問題。そこでハイデガーが出てくる。

ハイデガーにとっては公共的な世界は、すでに本来的な自己から頽落した世界であった。現存在は頽落した非本来的な世界を生きるのであり、死への先駆によって、高次の世界に戻るのである。ハイデガーは、人間が本来的な実存としてあるのは、死を先取りすることによって、良心の声に従って自己の無の可能性を直視し、〈世人〉という頽落したありかたから回復することにおいてだと考えたのである。(中山解説240)

要するにフーコーは、ハイデガーによって、臨床的な知が依拠している認識論的前提自体を問うための視点を獲得したというわけだ。
最後に、何と言っても仲正本は、ふたたびかなり読ませた。貨幣=物象化論を補助線として、シェイクスピアベニスの商人』、ゲーテファウスト』、金原ひとみ蛇にピアス』、村上春樹海辺のカフカ』などを素材とした語りが続く。たとえば、シェイクスピアの作品世界が表わしているのは、キリスト教社会における垂直的な重みづけをもった秩序感覚(=ポーシャ)と、貨幣が作り出す(反キリスト教的な)水平的な秩序感覚(=シャイロック)との対立なのだという。一応、引用しとくか。

信仰共同体とは無関係に、経済的利害にのみ基づく関係性(=契約)を瞬時に現実化してしまう「貨幣」は、「パンと葡萄酒」を中心とする象徴体系の重さによって権威を保ってきたキリスト教にとっては、恐るべきライバルである。人為的に、しかも手軽に「信用」を作り出せるのであれば、重々しい象徴的な儀礼によって「信仰」を保持していくことの必要性が薄れてくるからである。しかし、ポーシャの裁きの矛盾に見られるように、教会の側も「貨幣」経済に依拠するようになっていたので、「貨幣」の浸透を抑えるのは難しい。「免罪符」の「販売」をめぐる意見の対立で、宗教改革が起こったことからも分かるように、教会自体が自己矛盾を露呈して、「貨幣」的な「正義」に導かれる近代市民社会への道を開いてしまった面もある。(60−61)

あと、ゲーテベンヤミンをめぐって、「精神的な領域」や「自然」といったものも、貨幣システムが社会を物象化の波で覆い尽くしてしまったあとに見いだされる、といった主張がされていたのだけれど、とりわけ『ファウスト』解釈が興味深かった。それから、ベンヤミンの「ファンタスマゴリー」〔「物に光を当てた時にできる影を観客の前に怪物のように大きく映し出す幻灯装置」(106)〕の説明も良かった。

「私」の“自然な感性”が弱まっていて、どこに「自然」を求めていいのか分からなくなっているからこそ、「芸術」的な創作が“余分に”必要になってくるのである。パリに生まれた「商品世界」は“自然”を求める人々の「欲望」を吸収しながら、それに芸術的表現形態を与えることで「欲望」をさらに膨張させ、生産力に変換していく。そのようにして市民たちの「欲望」を集積して、彼ら自身の目の前に「再現前化=表象」する作用が「ファンタスマゴリー」である。ファンタスマゴリーの幻影にとらわれた都市の住民たちは、無自覚的に、ファンタスマゴリーの拡大再生産に寄与するようになる。(113)

というようなことを、トスカニーニファルスタッフ」(ヴェルディ)、ムラヴィンスキーチャイコフスキー第五番・第六番」(←良さが分かってきた)なんかを聴きながら書いて、「今日の出来事」もようやく終わりのようである。おやすみなさい。