知識社会学と言説分析(4月22日分を移動)

今日はますます誰も読まない話題について書こう。Merton『社会理論と社会構造』の第12章「知識社会学」を勉強した。Mertonはここで、従来からの知識社会学の各潮流について整理し、今後の知識社会学のあるべき方向性を指し示している。分析されるのは、マルクス・エンゲルス、シェーラー、マンハイム、Durkheim、ソローキンらの所論である。

そのために用意されているMertonの分析図式が、なかなかにブリリアント。それは次の五つの視角に基づいている。「①精神的所産の存在根拠が位置づけられるのはどこか。②どんな精神的所産が社会学的に分析されているか。③どのように精神的所産は存在根拠に結びつけられるか。④存在に制約されたこれらの精神的所産に帰せられる顕在的、潜在的機能。⑤存在根拠と知識の間に想定された関係が現実に支配するのはいつか。」(420−421)

第12章では、この分析図式にしたがって、第三節「存在基盤」(①)、第四節「知識の諸類型」(②)、第五節「知識と存在基盤の関係」(③)、第六節「存在に制約された知識の機能」(④)と、過去の知識社会学理論が俎上に挙げられ、批判されている。だがメインはやはり、第五節「知識と存在基盤の関係」だと思われるので、これを中心に、まず論点を確認しよう。

そもそも知識社会学とは、ある「知識」が何らかの「存在基盤」によって影響されていることを前提とする。その上で、その影響関係を明るみに出すことを目的とするのが、知識社会学の動機である。つまり知識社会学は、知識の「真理性」を疑い、その「真理性」を成り立たせている社会的原因を突きとめようとする。それゆえ、ブルジョワジーイデオロギー(虚偽意識)を暴き、プロレタリアート革命への足がかりを探究しようとしたマルクス主義は、(Mertonも重く取り扱っているように)知識社会学の重要な源泉のひとつであったといえよう。またMertonによると、現代のアメリカ社会がきわめて多様化・複雑化していることも、それぞれの発言内容の社会的規定性が問題となることの(=すなわち、知識社会学が要請されることの)背景要因となっているという。

しかしMertonは、これまでの知識社会学は、その理論構成において曖昧で、形而上学的・思弁的なものでしかなかったと批判している。つまりそれらは、存在(=実在)と知識との影響関係について、「反映」「対応」「因果関係」といった単純な規定要因を想定するものであり、「どのような社会層が、どのような知識について、どのようなかたちで影響を受けるのか」といった、基本的な検証ポイントをクリアしうるものではなかったのである。それゆえ知識社会学は、経験的な検証可能性を十分にふまえた研究へと生まれ変わらなければならないと彼は力説する(あるいは、そのような方向性が実際に生まれつつあると言う)。

思うに、おそらくここでMertonは、思想研究や歴史的研究において社会学が当然に踏まえるべき、基本的な研究態度を指摘しているのだろう。たとえば、ある思想について「これは新自由主義イデオロギーの影響ですね」といった大ざっぱなことをいう研究者は、今なお絶えない(横行している?)。あるいは、マルクス主義的な影響下で(一部のカルスタのように)「表象の政治性」を暴き立ててハイ終了、などというお手軽研究も少なくないと聞く(私はハナから無視しているので、そもそも眼に入ってこない)。その意味で、このMertonの所説に、今日的な重要性を認めて良いのはたしかであろうと思われる。

しかし、問題がないわけではない(というかオオアリ)。というのも、ここでMertonは、「経験的な検証可能性」という命題に依りかかって、知識社会学の「特権的な真理性」を安易に前提しているように思われるからである。そもそも研究者が、ある「思想」なり「言論」なりの存在規定性を主張する場合というのは、究極的には、超越的な立場から、その因果関係を想定している。しかしもちろん、そのような「超越的な立場」がいかにして担保され得るのかについて、何らかの「経験的に検証可能」な証拠があるわけではない。それは文字通り、「超越的」(=非経験的)でしかないのである。

この問題は、次のようにも言い換えられる。知識社会学は、「知識」の「真理性」の虚偽を暴くことを目的としている。だが、「知識社会学」も「知識」のひとつである以上、自分自身の「真理性」が問題とならざるをえない。つまり、自己言及的な問題がここには生じているのである。

では、このアポリアはどのようにして解除できるのだろうか。さしあたっての戦略は、二つあるだろう。一つは、「知識社会学」が与える「知識」の「真理性」を放棄することである。もう一つは、「知識社会学」には他の「知識」にはない「特権的な真理性」が宿っているのだ、と強弁しつづけることである。

まずは、前者から。おそらくこれは、構築主義存在論的ゲリマンダリングなどの話と関わってくる問題だろう(と思うが、よく分からない)。しかし、普通に考えても、「知識」の「真理性」を放棄したところで、果して「学問」や「科学」が可能であるかについては、否定的に考える以外ない。この路線はダメだと考えるべきだろう(といいつつ、この問題は最後に蒸し返す)。

したがって、現実的には、後者の道が妥当であろう。Mertonもこの立場に立つが、学問というのが「真理」を探究する営為であることを考えるならば、これはさしあたって一番無理がない路線だ。むしろ、過剰な脱構築的立場のほうが、「それではなぜ学問をするのか」という問いを無効にさせる点で自己矛盾的である。(もちろん逆に、過剰な基礎づけ主義を、社会科学において要求することも間違いではある。)

しかしながら、ここにも依然問題は残るので、注意が必要である。なぜなら、知識社会学の前提している説明図式には、次に述べるような、内在的な問題点が存在するからである。

結論から述べよう。第一の問題点。知識社会学が、ある「知識」や「観念」を特定の「存在」へと結びつけるには、現在の社会はあまりに多様化・複雑化している。ちょっとやそっと、社会層を分類し、知識の種類を分類したところで、そこに特定の影響関係を見出すことはもはや難しくなっているのである。これは、冷戦体制のような分かりやすい政治的図式が失効したこととも関係しているし、情報化などの問題ともリンクしている。

第二の問題点。知識社会学が、ある「知識」や「観念」を特定の「存在」へと結びつけるには、近代社会はあまりに多様化・複雑化であった、ということが歴史研究の蓄積によって明らかになっている。つまり、「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」「前近代社会から近代社会へ」といった「大きな図式」が学問的に失効したために、社会科学として、社会に対してどのような「超越的視点」を取り得るのか、が自明ではなくなったのである。

難しい問題なので、具体的に考えてみよう。社会の多様な部分領域が、それぞれに厚みを持った記述でもって描かれている現在の学問状況において、知識社会学は、「知識」を規定するための「存在」のありかを、きわめて多様に、厚みをもって、特定しなければならない。とするならば、「これこれの知識は、これこれの背景によって形作られたのですよ」というタイプの分かりやすい説明はおそらくアウトとなり、「これこれの知識は、この背景も、あの背景も影響している」というタイプの複雑な説明が要請されることになる。だがこのことは、社会学的研究の持つ「鮮やかさ」を、かなり犠牲したところでしか成立しないものであるだろう。すなわち、理論としての性能がどうしても鈍らざるをえないことになる。

したがってやはり、知識社会学(あるいは経験的研究を試みるあらゆるタイプの社会学)は、みずからの「特権性」を強弁することに、どこかで消極的であらざるをえない。(そして、もしかするとこのことは、社会学がいま突き当たっている本質的な問題であると考えてよいかもしれない。)

さらにこのとき、問題は大きくシフトするだろう。示唆しておいたように、(知識)社会学は、みずからの「真理性」を放棄する(前者)の立場に、ふたたび誘惑されることになるのである。そこで問題となるのが、「言説分析」という方法である。

言説分析というのは、フーコーの創始した方法であるが、これは研究者の特権的真理性に依拠するのではなく、「言説」を社会的事物(というか、物質性のレベル)で把握し、その秩序を「記述」する方法である。(細かいことをいうと、「言表」という最小単位があって、それが何らかのまとまりをつくって「言説」となり、それらの全体が「集蔵体」と呼ばれる。)したがって、ここには研究者の「社会学的解釈」は介在しないといってよい。なぜなら、物質を集めてきて、それを観察して、記述するのに、特段の解釈的行為はいらないからである。ゆえに、これは研究者の特権的な解釈図式を必要としないところでも成立する研究方法である*1。(もちろん、この言説の秩序のなかに、「権力」の「効果」を読み取ったりもするわけであるが、そういうかたちで指摘される「権力」というのも、ずいぶんと茫漠なものでしかないだろう、と独り言。)

ところが、言説分析にも色々とあって、まったく記述するだけのものから、知識社会学的な解釈をちょこっと入れてみたりするもの(「言説分析の知識社会学的弱毒化」←誰の言葉でしょう?)、そもそも知識社会学と言説分析を混同しているもの、などがあり、大変応対に困る。そこで、これらを整理すると……いつまでたっても終わらないので、ここらで強制終了。御静聴ありがとうございました。

注)ただし、内田隆三の言うように、言説分析をDurkheimの系譜で理解する、という社会学の可能性はあるかもしれない。「物質」としての言説に、「社会的なるもの」を見いだしていくというような、ベンヤミンにも通じる方法。しかし、これが「方法」といえるのかどうかはあまりに微妙だろう。「普遍的」なものを目掛けて論理構成を整えていく、というのが基本スタイルであるはずだから。