目白台を散歩

昨日『大転換』を入手し損ねたので、同じポランニーの『経済と文明』を読んでみたのだが、ダホメ社会(ギニアあたりか?)の独特な習俗については分かるものの、大きなストーリーが見えてこない。ちょっと煮詰まったので、気候も良いことだし、散歩でもしようかと、夕方5時頃から飯田橋を出発し、目白まで(!)歩いた。
もちろん、目白が最初から目的地だったわけではなくて(当たり前だが遠すぎる)、ちょっと土地勘の薄い方向に歩いていったら、そうなってしまったというだけのことなのだが、新宿区に入って文京区へ、というコースをたどったら、まずは、地蔵通り商店街というレトロな通りにぶつかり、これが本当に味のある良い街だった。買い物用ワゴンを杖がわりに歩く、小さいお婆さんたちがわらわらと居る。植木の花が良く咲いているね、おたくの犬は元気?などと立ち話をしているようだ。そういう平和な光景がひろがるなか、商店街には、ありがちなオルゴールのBGMが控えめに流れている。なんとも安っぽさが溢れているのだけれど、しかしそれも地に足のついた日常のなかに溶け込んでいるわけで、独特な説得力を帯びていることは確かである。また、おもちゃ屋、米屋、雑貨屋などといった零細な地元商店もたいへん賑わっていて、同じならびには地蔵の祠なんかもあり、そういう異次元世界もふくめて、平板な郊外型ライフスタイルを見慣れた眼からは、何ともいえない懐かしさが際立っているように思われる。もちろん、その懐かしさというのも、「ファンタスマゴリック」というか、無意識的欲望の断片が積み重なったものにすぎないわけで、そう単純に懐かしがってばかりもいられないのだけれど――とまあ、ひとり衒学的な夢想に耽ってみるのも、また散歩の醍醐味と云うべきだろう。
さて、地蔵通り商店街を抜けると、江戸川橋の向こうは文京区である。神田川の水は淀み、川ぞいにつづく散歩道の躑躅の美しさとは対照的に、どぶ臭い匂いを漂わせている。とはいえ、散歩に連れられているビーグル犬の落ち着きのない表情を見ているだけだけでも、それなりに心が浮き立ってくるものだ。そのままずっと歩いていくと、途中で石段が坂の上まで延びている場所があって、坂を登ると、地名は目白台となっている。地図を見ると、窪田空穂ら文人の旧居が散在しているらしく、関心は惹かれたものの、今回はいちいち確かめずにそのまま進んだ。すると、椿山荘という大きなホテルにぶつかり、どうやら、かつてここでは野生の椿が群生し、山形有朋が屋敷を構えたということだそうである。すると、ふと目白台という言葉の響きに聞き憶えがあることに気がついて、そうか、田中角栄の目白御殿があるはずじゃないか、とあたりを見回したら、目の前に大きな構えのお家があり、その門の表札が「田中」だった。ああ見つけたと思って、あらためてここのロケーションに注意を向けてみると、日本女子大学の建物の横、小高い台地のうえからの眺望は、北に池袋、南に早稲田方面と、かなりの絶景である。やはり目白「御殿」なんだなと納得し、畢竟、わが家近くの小渕元首相邸を思いおこすことになったが、しょせん経世会田中派の子分の分際、竹下造反の反逆騒動はあったけれど、まるで格が違っているのは仕方がない。ましてや小渕さんは、自自公くずれの騒動のなかで急な病に襲われてしまったわけで、これは田中角栄の呪いなのだろうか、などと興趣がそそられているうちに、散歩コースは終点の目白駅へ。
帰宅後、増田四郎『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)を読む。増田さんは一ツ橋大学出身の歴史学者西洋史)で、個人的には『都市』という書物が記憶に残っているが、同時に1908年奈良県生まれ、というのが親しみをおぼえるポイントで、尋常小学校を卒業後、伊賀上野の中学校に山越えで通っていたとのエピソードなど、学問の道を志すまでの道程がとっても面白い。戦前、東京商業大学(一橋大学)は商業教員養成所という機関があり、ここは月給が二十五円出たので進学したらしいのだが、自分はもともと百姓になろうと思っていた、そのなかで蚕などの価格がどのように決まるか知りたいと思った、という出発点が学問の動機を漠然と形成していて、実学をきびしく意識する増田歴史学の形成に色濃く反映されていったのだなということが、無理なく了解される。それにしても、あまりに正統的な学徒ぶりで、昔の人は偉かった、などといってしまってはかえって失礼だろうか。