「あの楽しかりし日々」(1952)

ジョージ・オーウェル(1903−1950)『象を撃つ』所収。オーウェル幼少期のプレップ・スクールでの体験を振り返ったエッセイで、これはトラウマの告白である。平明達意の名散文であるが、涙なしには読めない。どうしてこんなにひどい教育がおこなわれ、また親たちもなぜ子供たちをこのような寄宿学校に通わせていたのか。ほんとうに理解に苦しむ――と思っていたところ、巻末解説で里見実氏が、次のような説明をしていた。

パブリック・スクール、とくに赤レンガ学校とよばれる中世以来の歴史をもつ伝統校に学ぶ生徒たちは地主階級の子弟が多く、しばしば「ジェントルマンの製造工場」とも評されている。早期に男の子を親元から離し、予備小学校*1やパブルック・スクールの寄宿舎で、いわゆるスパルタ指揮の教育をおこなうことが、いつのころからか、イギリスの上流家庭の風潮になっていったようで、一般に名家の子どもは、七、八歳のころから、かなり強引なかたちで親ばなれを経験させられていたのである。地主階級とはいっても、親の土地を相続することのできない次三男は家を出て何らかの職業に転身するほかはなく、その受け皿となったのが官吏や軍人(とくに植民地の)であったのだが、そのことと上記の風潮とはどこかで関わっているのかもしれない。ともあれ、植民地が拡大するヴィクトリア朝中期以降にいたって、この傾向はますます顕著になり、それに乗ってパブリック・スクールは大発展をとげた。(306−309)

19世紀後半から急速に進行した「中産階級のジェントルマン化」は、植民地官吏養成とジェントルマン教育の一体化をめざす制度改革と相まって、パブリック・スクールの大発展を招いた。プレップ・スクールにおいても、早期からのスパルタ教育が流行することになったのだが(1860年代から1880年代、および第一次世界大戦の時代)、オーウェルはこの時期の教育をまともに受けてしまったわけである。貧しい食生活、不衛生きわまりない生活環境、丸暗記主義の古典語教育、日常茶飯の体罰。このような悲惨な教育環境が、親の露骨な階級的欲望が背後に置かれることで、どういうわけだか容認されたり、当たり前のことと見なされていたのだった。
とりわけオーウェルの場合、「奨学生」という身分だったことが、精神的な苦痛を倍加させることになった。パブリック・スクールは私立学校であり、高額の授業料を徴収していた。しかし、適度の階級移動を可能にする奨学金制度も備えられており、プレップ・スクールでは、そのような奨学生を輩出することが、みずからの学校の威信を形成するという仕組みになっていたのである。丸暗記主義の超受験教育が行われていたのもそのためであったが、経営上の観点からは、例外的にすぐれた能力をもった子どもを奨学生とすることも行われていた。オーウェルもそのような生徒の一人であり、そのことについて彼はこう書いている。

私はサンボとフリップに、弱々しい、後ろめたい憎悪を感じてはいたが、彼らの判断を疑うなどということは思いもよらなかった。パブリック・スクール奨学金を獲得するか、十四歳で給仕になるか、どちらかにしなければならぬと言われれば、この二つのどちらかを選ぶしか道がないのだと信じてしまったし、それになにしろ、サンボやフリップが、自分たちはおまえの恩人だと言ったとき、彼らの言うことを信じたのである。いまになれば私だって当然、サンボの目から見れば私は投機のよい対象だったのだということが分かる。彼は私に投資し、それを学校の名声という形でもどしてもらうつもりだったのだ。もしも私が、有望な少年たちにときたま起こるように「ぐれてしまった」ということになれば、彼は私をさっさと追い出していたと思う。実際には、私は結局、奨学金を二つも獲得してやったのだから、彼が学校案内でそいつを十分ご利用になったことは間違いない。(177)

プレップ・スクール時代は、このような意味で、卑屈、憎悪、恐怖、絶望といったあらゆる負の感情を、オーウェルに植えつけられることになったのだが、それは上記のような階級差別の意識以外にも、性道徳(「もし自慰をすると、しまいには気違い病院行きだぞ」(228))や教育方針などあらゆる面で、徹底的に遂行されたのであった。
で、こうした権力への異常なまでの敏感さが、その後のオーウェル全体主義観、ナショナリズム観、イギリス社会批判につながっていくわけである、と締めれば、この文章を終えることができるのだけれども、しかし私の心に響いたのは、どちらかといえば次のような一節であったりする。

 こういったことはすべて、三十年かそれ以上も昔のことである。問題は、今でも学校にやられている子供が同じようなことを経験しているかどうか、ということなのである。
 これに対する唯一の正直な答えは、われわれには正確なところは分からない、というのだと思う。もちろん、明らかに今日の教育への姿勢は、過去よりははるかに人道的であり、もの分かりがよい。私の受けた教育では欠くことのできなかった上流気取りは、そういったものをつちかってきた社会そのものが死んでしまったから、今日ではとうてい考えられないことであろう。……
 ……問題は、いまなお少年たちが日曜日にイートン・カラーで締め上げられたり、赤ん坊はすぐりの木の茂みの下から掘り出されるのだと教えられたりするかどうか、ということではない。そのようなことは終わったと認められる。真の問題は、学童が何年ものあいだ理不尽な恐怖と気が狂った誤解のなかで暮らすことが、いまでも普通なのかどうかということだ。そしてここでわれわれは、ほんとうに子供が何を感じ、何を考えているかを知るという、非常にむずかしいことに直面する。一応はけっこう幸福に見える子供が、実際には面に表わせない、あるいは表わしたくない恐怖におののいているかもしれないのである。子供というものは、私たちが記憶とか、あるいは逆に推量能力によってしかはいり込むことのできない、われわれとはまったく異質の一種の水中の世界とでもいうべきところに住んでいるのである。私たちのおもな手がかりは、自分たちもかつては子供だったということなのだが、多くの人々は自分の子供時代の気分をほとんどすっかり忘れてしまっているようである。……(226−229)

寄宿舎批判、であるが、それよりも本質的なのは、大人に子供が理解できるのか、という問題提起の方にある。実際、このやや長文のエッセイを読んで、子供の頃の「独自に繊細な感受性」を想起させられると、それがまったく忘れ去られてしまった感覚であることに、驚かされずにはいられない。「少年という、何物にも疑問を持たず、より強い者が作った規則を受けいれ、自分よりもっと弱い者にうっぷんを晴らして、自分の屈辱感に復讐している群居性の動物たちのなかに、私たちは暮らしていたのである」(221)。「10代真剣しゃべり場」などを見れば、奇怪としか思えないような10代の感受性であるが、たとえばそこに、リベラリズムのような「分別」を教え込んだところで、それが本当に効果を上げるのかどうか。「大人の『分別』が、子供の世界ですんなり受け入れられるのか」という問題は、私にとって再考すべき問題であることに、気づかされた。

象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)

象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)

*1:プレパラトリー・スクール。五年生の寄宿舎学校。