『西洋音楽史』

ずばり名著。お薦めしたい。
ヨーロッパ音楽史の流れ(グレゴリオ聖歌ルネサンス音楽バロック音楽―ウィーン古典派―ロマン派―後期ロマン派―新古典主義と十二音技法)が、歴史状況のなかに的確に位置づけられつつ、楽しい挿話とともに語られている。ヨーロッパ思想史、社会史がわかる。藝術史がわかる。「クラシック音楽」が徹底的に相対化されており、われわれが音楽を楽しむことの歴史的条件がすごく良く理解できる。とくに、ドイツ=クラシックの枠組みから外れた部分については、目から鱗の連続だった。いや、19世紀ドイツ音楽についても、そうだけど。たとえば、ワーグナーブラームスがめざしていたもの。

…十九世紀に入って、とりわけドイツ・ロマン派の詩人たちの間で、純粋器楽曲崇拝とでもいうべきものが生じはじめる。彼らは芸術の中にあらゆる現実=具象を超えたものを求めてやまなかった。これが俗にドイツ・ロマン派の「無限の憧れ」と呼ばれるものである(…)。「いうにいわれぬもの」を、つまり言葉を超えたポエジーを表現するのが、彼らの願いだった。だが、絵画にしても文学(…)にしても、具象的な世界を完全に捨象することはできない。音声だけでできた詩とか、色と形だけでできた絵画などというものは、当時は存在しなかった。諸芸術の中でただ音楽だけが、それも器楽曲だけが、具象界を象徴できるのだ。(161)

この帰結がマラルメ純粋詩であり、カンディンスキー抽象絵画なのだといわれると、なるほどと了解できる部分がある。ここから無言歌、標題音楽絶対音楽の試みなどが生じてくる。ワーグナー標題音楽の方向を推し進め、楽劇=総合芸術を完成させたのだが、他方、絶対音楽としてのハンスリック=ブラームスのグループも同じ目的を共有していた。ハンスリックは「音楽の内容とは鳴り響きつつ運動する形式である」と述べ、シニフィアンシニフィエといった二層構造を音楽から排除したのである。これは「意味するもの」があるようでは「絶対音楽」とはならない、という彼の考えから来る主張であった。

ハンスリックは一般に、ワーグナーと敵対した、頭の固い保守的な批評家というイメージが強い。……だが彼の考え方は、先にも触れたマラルメ純粋詩カンディンスキー抽象絵画、さらには二〇世紀におけるロシア。フォルマリズムの文学理論にまで通じていくような、きわめて先鋭的なものだったことを忘れてはならないだろう。(165−166)

このような音楽観の背後には、「神を殺してしまったせいで行き場がなくなった、『目に見えないものへの畏怖』や『震撼するような法悦体験』に対する人々の渇望」があった(169)。「市民を感動させる音楽」としてのロマン派音楽の普及には、こうした事情が関わっていたのである。本書では、神の合理的秩序のあらわれとしての音楽=中世音楽絶対王政時代の王侯貴族向け音楽=バロック音楽(バッハは例外)、市民層向け音楽=古典派と説明されてきているので、ふんふんと頷ける。
クラシック音楽第一次大戦後、大きな転回を迎えることになった。もちろん第一次大戦こそが、最大の要因であった。本書で、ストラヴィンスキーシェーンベルクが対比されているところは、またもや目から鱗である。まずはストラヴィンスキーから。

新古典主義時代の彼は、「パクリ」と「継ぎ接ぎ」を誰はばかることなく作曲の中心原理として創作の全面に押し出してきた。これは十九世紀ロマン派の独創美学に対する痛烈なアンチテーゼ――彼はロマン派音楽が大嫌いだった――であった。十九世紀の音楽史は、しゃにむに新しい音素材(…)の開拓に勤しんできた。だが新古典主義時代のストラヴィンスキーは、こうした「新素材開発」の方向に完全に背を向ける。……その背後にあったのは、「音響的に新しいオリジナルな素材は、もはやこれ以上開拓する余地は残っていない」という認識だったのではないか。(210−212)

次に、シェーンベルク

一九一〇年前後に彼が調性を解体したことは第六章で述べたが、当時の彼は、ほとんど理論の支えなしに、霊感と本能でそれをやっていた。音楽に限らず表現主義の運動はおしなべてそういうものだったわけだが、いわゆる「自由な無調」の時代のシェーンベルクが行なったのは、作者の内面の震動とでもいうべきものを、既成の法則や形式や理論を一切介在させず、直接響きにしようとする挑戦だった。(221)

その後、方法論として十二音技法が開発されるわけだが、このようにしてシェーンベルクは、「もはや誰一人自分に耳を傾けてくれる人がいない荒野へ踏み出そうとも、断固として音楽史を前進させようとした」のである。とはいえ、このように「崩壊後の秩序の再構築」が模索されたときには、もはやクラシックは黄昏時を迎えていたわけである。
ところでヒコリンは音楽教師なのであるが、私の幼少期からずっと、ロマン派音楽的な価値観(=標題音楽ライン)を私に吹き込んできた。しかし私はそうした幼稚さを嫌い、ヒコリンを他山の石としつつ、合理主義的表現の重要性を主張してきた。したがってもしヒコリンが読書家であったなら(=仮定法)、積年の恨みを込めて、まずはこの本をプレゼントしたいと考える。しかしロマン派は、感動を至上の価値と見なす批判的読書が苦手な人々であり、所詮はそれもはかない目論見と終わるだろう。「バッハ、ベートーベンの心は、どんな時代でも伝わるねん」などと言いながら、ヒコリンは一生を幸せに過ごすのだ。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)