大河内(1970)の続き

平明な名著だと改めて思う。
ミルの思想は折衷的なものだったようだが、それは措いておき、まずは1832年から1848年までのイギリス労働者階級が置かれた状況について、事実レベルでのメモ。

  • 1833年以来の工場法の改正は、実質的に労働者階級を満足させることはなく――引用者)…翌年の一八三四年、エリザベス朝以来の救貧法は、すでに述べたマルサスの精神に従って改正され、従来の院外救助ないしは居宅救助を廃し、また通例スピナムランド・システムとよばれていた賃銀補助の方式を廃して、自力で生活できない貧困者を院内救助、プーア・ハウスへ収容する、国家の手によって救貧院に収容救済はするが、彼らの待遇はもっとも劣悪なものでなければならず、さらに彼らのうち働ける者をワーク・ハウス……「労役場」に収容し、精神的にも技能的にも彼らに労働を強制することを内容とするものであったので、三四年の改正救貧法は労働階級の憤激を買ったことは言うまでもなかった。(119)

もともと第三・第四階級は、地主階級が利益を得る穀物条例のような保護政策をリカード古典経済学によって批判する立場を取っていたが、これは短期的には海外からの安い穀物の輸入を容認する政策であったため、労働賃金は下落し、生活を零落させていたところに、上記のように選挙法も、工場法も、救貧法も改悪される状況が招かれ、彼らは、1939年の「人民憲章」のためのチャーチスト運動、そして1848年の革命へと走っていくわけである。ここらへんは本当に歴史のダイナミズムを感じさせる部分である。
第三章は「歴史派経済学」で、1840年代から1860年代までの旧歴史学派と、1860年代後半から1890年までの新歴史学派について、それぞれ論じられている。ごく簡単に引用しておく。まずは、旧歴史学派について。

  • リスト、ロッシャー、ヒルデブラント、クニースを代表者とする「旧歴史学派」にとっては、その時代の制約のために、むしろ後進国としてのドイツの近代化をすすめることが先決の経済政策上の問題であり、そのために彼らは、いずれも歴史的方法を主張し、あるいは経済の発展段階の理論を構想した。(176)

当時は歴史法学(「サヴィニ=アイヒホルンの方法(140)」)や歴史言語学などが、ドイツの固有性などに立脚した理論展開をしており、旧歴史学派もまた、「国民経済を民族有機体の一つの流出物」(141)と見るような発想をとったわけである。リストの発展段階論などは、かなり興味深い。たしかに、まずは広範な国内市場が存在せねばならず、また工業化の初期段階においては保護政策が取られるべきであり、国際競争力を持ちえた暁には市場の圧力が必要となるのである。
次に、新歴史学派について。

  • ……六十年代末から、九十年代前後におよび「新歴史学派」は、かくしてできあがったドイツ帝国の内部に生起しはじめた二つの問題、すなわち産業革命にともなって生じた多数の旧手工業者や、家内工業者や独立自営農民の没落と窮乏をどうするか、あるいは急進的な社会主義運動の突如たるタイ頭に対していかように対処するか、そうしてこのような「社会問題」を控えて、これを解決する手段として、経済学は、いまや古典経済学の考えたような利己心と自由放任を前提とするものであってはならず、経済学そのものが、まず〈倫理的〉性格を帯びることによって、はじめてかような「社会問題」に対する〈外からの〉介入の根拠がつくり出されうると考えたかぎりにおいて、彼らは倫理的経済学とも称ばれ得たのである。(176)

歴史学派は講壇的であったが、自由放任経済と社会主義運動に対して中立的な位置を占めた「社会政策学会」(1873−1935)は、ビスマルクのアメとムチ政策と協力関係を築きつつ、新歴史学派の活躍の中心的な舞台となったのである。ただ、その〈倫理的性格〉は、1890年以降、批判が加えられるようになる。ビスマルクの失脚が一番大きかったとはいえ、(1)「憐れな労働者」という実態の変質、(2)「世界市場におけるドイツ産業の競争能力」への懸念(179)という二つの問題が、歴史学派の「社会改良」型提言を時代遅れなものとさせたからである。