『合理主義の復権』

1973→1976年、増補版。碧海純一。好著。
ケルゼン―尾高朝雄の学統を引継ぎ、ドイツ観念論、とりわけヘーゲル弁証法に対する批判的観点から英米合理主義、ウィーン学団分析哲学、POPER、WEBERなどの思想の「現代的評価」を試みる。「現代的」というのはもちろんマルクス主義のこと。当時跋扈していた新左翼勢力に対する反感について、少し冒頭で語られている。
ベートーベン第九のシラーの詩にある「神々の火花」から、西欧思想を脈打つグノーシス思想と弁証法思想の親近性を説き(トーピッチュ)、ケルゼンの純粋法学(自然法思想への批判)を評価するなかで、価値判断論争(WEBER)やPOPERの合理主義を「復権」しようと試みる論旨の一貫性は、あざやかそのもの。2箇所だけ引用する。

…この種の想定の中でも、特にかれ(ポパー)が重要視するのは、「無知陰謀説」(The conspiracy theory of ignorance)である。これは、「無知というものは、単なる知識の欠如ではなくて、何か意地の悪い力のしわざ――すなわち、われわれの心を毒し、われわれに知識への抵抗の〔悪〕癖をつけようとする不純で邪悪な諸影響のしわざ――であると解する」見解である。(288)

これはマルクス主義に一般的な思考様式であるが、そもそもはホメロスおよびヘシオドスにまで遡ることができる。ポパーは自らの立場を次のように表明している。

「ところで知識の源泉は一体何であろうか。思うに、この問に対する答はこうである・・われわれの知識の源泉としてはあらゆる種類のものがあるが、そのどれをとっても権威はないのである。」「知識の究極の源泉に関する哲学説の根本的な誤りは、起源の諸問題と妥当性の諸問題とを十分明確に区別しないところにある。」(291)

すなわち、神様に由来する「真理」という観念が、事実的な妥当性に関する検証手続きを滞らせ、そのことが「無知陰謀説」を生み出す結果を招くということである。知識の源泉に権威を認めないところから、科学は出発するのだ。
「ある対象に権威を感じるか否か」は、人それぞれである。だが、「事実が検証されるかどうか」は、普遍的に確認することができる。「権威」によって「真理」を根拠づけてしまうことの一番の弊害は、「権威」を共有できない「他者」との対話が、それによって閉ざされてしまうことにある。先日、「バカ、バカ」と連呼して言いたかったのは、そういうことである。