『評伝 柳宗悦』

読み進めてみると期待以上に面白い。何よりも柳の志の高さに驚かされる。白樺同人との関係性や、ロダンあるいは後期印象派への熱狂などもさらに深く知りたいところであるが、柳の思想がウィリアム・ブレイクとの出会いを契機にいっそう堅固なものとなった経緯は興味深い*1。数日前のエントリーでも引用した「直観」という用語は、その文脈で非常に重いものだ。

「法則を嫌い理性を憎んだ彼が絶えず霊感を求めて自然な生命の衝動直観を重んじた事は著しい事実である。近世の哲学が明かに説いた様に実在を把握するものは知性ではない、直観である。ブレークは彼の藝術的経験によって此心理を明瞭に指摘してゐる。直観とは実在の直接経験である。(中略)真理の獲得はいつでも直観的経験にある。(中略)一切の宗教的経験、又は藝術的コウケイの高調は悉く直観的状態を示してゐる。(中略)ブレーク自らの切実な経験である此直観の観念が彼の『想像』又は『幻像』の思想と密接な関係がある事は自明である。」(『ヰリアム・ブレーク』)(83)

「宗悦が、哲学の要件として重視した個性というものを、自我と自然、心と物、主観と客観の渾然とした融合による「自己寂滅」の世界へと解脱せしめることができたのも、ブレイク探究の大いなる成果であった」と著者はいう。「もとよりそれは自己の否定ではない。個性の消去ではない。自己の完全な拡充、個性の無辺な表現である」(84−85)。
したがって彼の民藝運動もその高邁な宗教哲学に裏打ちされたものであったということになる。無名の工人による無心の作品に美が宿る一方、資本制度の下では工芸が「利欲の商品」と化す(214)。この状態をいかに変革するか。

…宗悦は、今の社会に経済的瓦解と道徳的瓦解とが迫って、遠からず変化が起こり、早晩社会主義的時代が来る、と予見しているが、彼の社会改革の方途は政治的経済的手段に依ろうとするものではなく、あくまでも工藝を基盤とした組織を通じて行なおうとするのである。…
「神への愛、人への愛、自然への愛、正義への愛、仕事への愛、物への愛、かゝるものを抹殺して美の獲得はない。相愛の基礎に立つ協団は工藝によって喚求される社会であると云へないだらうか。工藝の為に準備すべき組織を想う時、私は私の理念を協団以上のものへ又以下のものへ置く事ができぬ。」
「協団」とは如何なる世界か。協力と結合と共有の天地、綜合と秩序の社会である。大道であり公道である。個人を超え、個性を超え、個我を超え、弧を超えて結合へと転廻する。…(220)

文明批判としての工藝論、美を基軸とする社会改革が、柳の構想する仕事の全体像を規定していたと考えられる。
さて、自然を操作可能な対象とし、個人を操作を加える側の能動的主体と見なす近代的自我観念への批判は、世界的な産業社会批判と連関させて見たとき、たいへん興味深いものである。画一で正確な操作性を可能にする近代的テクノロジーは、「目的と過程、計画と実行の峻別」(山崎:119)を生産現場にもたらした。しかしこのプロセスは、職人仕事として存在していた「アルスとしての技術」観念に、変質を導くものでもあった。「テクノロジー」観念に見られる目的と過程の峻別は、「過程」に重心を置くことで「目的」を宙吊りにし、瞬間瞬間のプロセスに緊張を伴った悦楽をもたらす「遊び」「社交」とは対極にある。この「社交の衰退」に20世紀初頭の思想家たちがいかに鋭く反応していたかは、山崎正和『社交する人間』に詳しく記述されている。柳の文明批判も同一線上に捉えられるだろう。柳の場合、工藝の「美」をイデアのごとき超越的次元に設定することで、逆説的なかたちで「目的」の極小化が図られているように思われる*2。先々週の土曜日に運子を出してみじめな思いをした私はそう考える*3

*1:寿岳文章が『ダンテ』を訳したのも柳を介してウィリアム・ブレイクと出会ったからなのだろうかと考えた。しかし調べてみると、むしろ寿岳はブレイクを介して柳と知遇を得たのであるらしい。http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060927

*2:素材との具体的接触を通じて、主体は製作プロセスの内部に一回的な充実を体験する。この一回性は、もはや規格的には再現不可能であるから、超越性にも通じる。柳の「美」とはそういうものではなかったか。

*3:先月25日の日記を参照。