グローバル化社会における生存の美学

近代哲学が前提とした主客二元図式は、近代過渡期には確固として存続することになった。〈世界―個人〉の図式は〈国家―個人〉の図式と類比的であり、「産業社会の構築」という外的目的に駆られた、ディシプリナリーな自己形成がイメージされやすかったためだ(他律を通じた自律)。対立が構成されるのは〈国家―個人〉を前提とする「労働者対資本家」という次元においてであった(旧左翼対旧右翼)。
だがソビエトの崩壊、グローバル化を背景として、国家による資本のコントロールが限界づけられた現在では、ディシプリナリーな動機づけ装置が無効化する。国家間での資本構成の差異が低減し(世界システムの変容、明確な国家目的が設定されえない)、個人を取り巻く社会的枠組みが多層化すると、個人と社会の関係性が不透明化するようになる(旧左翼とポストモダン左翼/国家共同体主義的旧保守とネオコンネオリベ)。さらに、そのことで実存的な内発性が一次的重要性を持つにいたると(=社会の心理化が伴う)、不透明化に乗じた不可視のコントロールがアーキテクチュラルに設計される可能性が出現する。他方、なおも外部的に構成される目的の層序を当てにする(ディシプリナリーな)振る舞いも、強固に残存しうる(心理主義的なナショナリズム現象、メディア政治)。
したがって問題は、アーキテクチャーの構造を見通したうえで、「ディシプリナリーならぬ内発的動機づけ」にもとづいた社会性の構築を如何になしうるか、ということになる。自律的で知的に制限されない「経験」の活性化をベースに(「人間と自然の一元的構成」への哲学的転換)、そうした「経験」の展開可能性を保障する「メタな設計主義的視点」も必要となる。
…こんな感じ。詩的に表現すると、こうも言えるか。

【24】すべての存在が生成の過程に解消され、すべての思考は生成が意識される過程にすぎないのであれば、結局――思考としても行動としても――もはや行為は存在しない。マルクスはこういう結論をヘーゲルから引き出した。世界は変化するという命題と、われわれが世界を変革するという命題は同じものになる。法則的に自ら変化する過程をそれぞれの側面から見ただけである。(371)

ただしマルクス主義が主張するプロレタリアートによる変革のみが、世界の変革なのではない。「資本対労働」の対立軸が失われた社会にあっては、社会性へと結びつけられた個人の生活経験が部分的に集積されることによってのみ、世界のありうべき変革が成し遂げられる。(そうした生活経験とは、生成のプロセスのなかに手段と目的とが交替的に結びつくようなものでなくてはならない。そもそも目的を自存化させることによって〈物質と精神〉〈世界と個人〉等の二元論が導かれるのである。「過程」の語に込められた理論的含意はそのようなものだ。)