和田嘉訓『世界はボクらを待っている』(1968)

世界はボクらを待っている(87分・35mm・カラー)
GSブームの頂点に立ったザ・タイガースが初主演した荒唐無稽なSFファンタジー。彼らのサウンドに音波を乱されて地球に不時着したアンドロメダ星の王女(久美)と、グループの人気者ジュリー(沢田)が恋におちるが、熱狂的な女性ファンがそれを許さない…。「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」などのヒット曲も満載、東宝の伝統である特撮技術も活かされたGS映画の代表作。
’68(東宝=渡辺プロ)(監)和田嘉訓(脚)田波靖男(撮)長谷川清(美)育野重一(音)森岡賢一郎すぎやまこういち(出)岸部おさみ(一徳)、沢田研二森本太郎加橋かつみ瞳みのる、久美かおり、小橋玲子、高橋厚子、美穂くるり松本めぐみ

銀色の宇宙服を着た天本英世の怪演、存在感のある小沢昭一の頑固親父役など、かなり見所の多いB級映画。いや、C級かもしれない。
とはいえ、純粋にアイドル映画、ミュージカル映画として観れば、怪しすぎる宇宙人が出てくるのもまあ愛嬌というわけで、タイガースの歌唱が楽しい佳作である。歴史的にも、GSブーム、当時のサブカルチャーの雰囲気を想像しやすい貴重な作品。ジュリーのフェミニンな魅力にも否定しがたいものを感じる(歌がけっこううまい)。
『帰ってきたヨッパライ』と同年の作品であるというのも戦後風俗史の奥深さを感じる部分だが、わたしが思ったのは、「国民的流行」の端緒がここらへんにあるのではないか、ということだ。おそらく90年代前半のトレンディードラマ全盛期までは、「これが文化の先端よ、これについていけてないのはオシャレじゃないよ」という流行をめぐる価値の序列があったのではないかと思う。序列があったがゆえに、80年代のオタクは否定的価値を付与されたわけである。しかし、いまやオタク差別などというものはほとんど稀薄なものでしかない。それは、流行をめぐる価値序列が相対化されてしまったからだ。
その要因については機会があれば論じるけれど、いずれにせよ、前近代的な村落共同体のエートスが急速に全面崩壊し、アメリカを頂点とする消費文化への参入が国民的に容易になった段階で、ある種の国民的共通意識が準備されることになったわけである。私の持論では、近代化は明治になされたのではなく、むしろ高度成長期に完成されたということになるが、そうしたなかで準備された共通尺度こそ、流行への競争意識を国民的に駆り立てた要因にほかならない。GSなどの流行に若者が異様に熱狂したのは、そうした背景があったのではないか、てなことをちょっと感じた。(なんせGSファンは熱狂のあまり失神するのである。これはビートルズの英国にももちろん当てはまる。)