早稲田文学』があったのでパラパラ見る。早稲田大学でのシンポジウムの模様が収録されており、けっこう面白かった。第三パートを中心に読んでみたのだが、批評や思想が成立しうる公共空間をいかに維持していくべきか(とくにネットの住人達との関係において)といったテーマが議論されている。人文知の衰退、論壇の衰退をそれぞれどのように状況認識し、それに対してどのような規範的解を与えるか、ということが問題のようだ。
アカデミズムが西洋型知識の輸入の場であった後進国家において、自前の思想はむしろ論壇(文学と批評)において展開された、という歴史認識は重要だろう。しかし文学を論じることが無条件に思想的営みに通じる、という批評のあり方は変わってしまい(ポストモダン)、それに応じて論壇の地位低下は必然的に招かれてしまった。では、公共的な思想空間をどこにどのように設定しうるかということが次に問題となる。何を論じることが思想的営みであるのかが判然としなくなった現在、この課題は難問となるほかない。
と、一見思えそうだが、後進国家であったからアカデミズムに頼れなかっただけなのだから、後進国家性さえ払拭してしまえば(既にほぼ払拭されているように思われる)、論壇なんてなくても困らない、というようにも思える。人文知の伝統は消え去るわけではないのだから、別に言論の場が「論壇」的なかたちでなくなったからといって、思想ができなくなるわけではないのではないか?ましてや、思想が一部のネット住人たちによって脊髄反射的に受容されることなど、無視して良いと思われる。むしろ、論壇がなくても、ネットがあるのだから、多様な思想の発表の場があっていいじゃん、と思う。違うかな?