最寄り駅までの途中、廃品回収業者を見つけたので、「ちょっとウチまで走ってくれますか?」と助手席に乗り込んで、壊れたパソコンとテレビを引き取ってもらった。スッキリ。業者の兄ちゃんは格闘技をやっているのか、自分がブツを運んでいるあいだ、シャドウボクシング。いい感じのひとだった。
その後、新しいテレビをもらう。軽い。けど、持って帰るのは重い。部屋を大々的に整理整頓して、気分爽快。
夜、必要なものを買いに新宿へ。入った店で、チュニジアの夜。かっこいい。人間観察をしてから帰る。
週刊文春』創刊50周年記念号を買ってきたのだが、藤原紀香のお母さんはかなりきつそう、ってのはどうでもいいけど、風水にうるさい紀香はかなりめんどくさそう、ってのもどうでもいいけど、立川談春柳家喬太郎の座談会で司会をしている堀井憲一郎が、あいかわらずウザくてたまらない(これもほんとはどうでもいい)。顔からして気に入らない。これも大嫌いだった清野徹という人は死んだらしく、亀和田武が追悼していた。
福田和也「さらば小沢一郎」。「どんな国家観を目指しているのか、まるで見えない」という小沢批判は、私はちがうと思うが(この時代、政治家に「国家観」など必要だろうか?)、かつて安倍政権を賛美し、いまや「麻生政権のほうがマシだ」と言ってのける福田和也は、ふてぶてしくて、やはり偉い。

気分がわるい。急に寒くなるのとか、やめてほしい。何か小説を読もうと思って探したのだけれど、何を読んだらいいのか思いつかなくて、また桐野夏生の文庫本を買ってきてしまった。
ヒストリエ』第5巻。謎の男の正体はフィリッポス。といっても、前巻の内容なんて忘れてしまっている。でも面白い。もっと話が動いてくれるといい。

ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)

ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)

電車の中で、レヴィナス『全体性と無限』(岩波文庫)の訳者解説(熊野純彦)を読む。他者を「理解する」ことの倫理的な問題性について。以下、読まなくてもいい引用。

他者を「理解」することも、もちろんありうることだろう。とはいえ他者はその理解を踏み越え、他者との「関係は理解をあふれ出して」ゆくのではないだろうか。他者を理解するとは、かえって、他者が私の知のいっさいから逃れ出る存在であることを理解することである。――なにかを「理解する comprendre」とは、そのなにかを包摂することである。理解された存在は、私の知によって「包摂されて compris」いる。そうであるとするならば、そうした包摂の対象とはなりえないもの、それだからこそすぐれて「対話」の相手となる者をこそ、ひとは他者と呼ぶのである。

他者を理解するとは他者を包摂し、他者を「所有」することである。ちなみに、所有とは、ある対象を肯定すること、ただしあくまで私との関係において、私に対する依存にあって肯定することにほかならない。だから所有とは一箇の「暴力」であり、存在者の「部分的な否定」なのである。所有であり包摂であるかぎり、他者を理解することもまた、他者に対する暴力となる。他者とは、それを否定することが「全面的な否定」でしかありえない存在者のことである。言い換えれば「他者とは、私が殺すことを欲することができる唯一の存在者なのである」。けれども、「対面 face-à-face」とは、殺人の不可能性のことにほかならない。対面とは「語り」であり、顔は顔であることですでになにごとかを「意味している」からだ。(330-331)

これは大変よく分かる話である。他人に対して、あなたのことは分かった、理解した、などと言ってしまいがちだが、これは根本的な意味で、非常に問題がある。他者を理解することは、包摂し、所有することであり、要するに「私に対する依存にあって肯定する」ことにほかならない。
被害者的な立場から、この点に警戒しておくことが重要かもしれない。他者からの理解を求めるあまり、依存関係において肯定されることを望んではならない。他者からの理解など、こちらから撥ねつけるのでなくてはならない。知らず知らずのうちに陥りがちな罠ではあるけれど。
ちなみにレヴィナスの他者論については、「レヴィナスの語る意味でのどのような倫理も、倫理的暴力なしには開始されない」という、デリダの批判があるらしい(349)。上記引用でも、「部分的否定」としての「暴力」こそが否定されるべきであり、他者とはむしろ「全面的な否定」の対象とされるべき存在だ(「他者とは、私が殺すことを欲することができる唯一の存在者なのである」)、と解説されている。
おそらくデリダの指摘する問題性は、個人としての人間が無限(神)と対峙する、というヘブライ的図式に起因するものだと思われる。有限な人間の汲み尽くしえない無限性、という思考は魅力的ではあるが*1、人間中心主義ではない倫理学というものもありうるだろう。

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

*1:「古典主義時代の思考にとって、有限性というものの内実は、ただ無限性の否定だけであった。ところが、一八世紀末に形成される思考は、有限性に積極的なものの力を付与する。」(35)。有限である人間が、その有限性において、無限なるものに触れる(経験的=超越論的二重体)。古典主義時代の「表象の世界」を打ち破る、「生命力の横溢する欲望的主体の出現」(84)。

ゾエ・カサヴェテス『ブロークン・イングリッシュ』(2007)

BROKEN ENGLISH アメリカ・フランス・日本合作映画 英語 1時間38分 出演: パーカー・ポージーメルヴィル・プポージーナ・ローランズ  http://broken-english.jp/index.html
30代独身キャリア・ウーマンのノラは、男運の悪さに落ち込んでいた折、積極的なフランス人青年に出会ったが、自信が持てず迷っている内、彼は帰国することに……結婚適齢期の女性の心情を等身大で描いた、亡きジョン・カサヴェテス監督の娘ゾエの監督デビュー作!! (GH)

結婚できないことに焦る主人公。そんなことに必死になっている自分もイヤ。「婚活」というほどドライにもなれず、運命の出会いをどこかで信じていたりもする。イケメン大好き。
パーカー・ポージーがかわいいので(40歳!!)、ボーッと見ていたのだが、途中でどうでもよくなって、意識が途切れた。フランス人のイケメンと出会い、パリまで行って奇跡的な再会を果たしたみたい。ニューヨーク、パリの風景は良かった。

桐野夏生残虐記』(新潮文庫)。精神衛生のために読んでみたのに、逆に気分がおかしくなった。少女が一年間監禁される話。

…私は夜の夢を紡ぐことによって、勘の鋭さを身に付けつつあった。嘘ではない。小説家になってから、私の直感は一度として外れたことがないのだ。想像とは、現実の中にある芯を探り当てた瞬間から始まる。現実という土壌なくして、想像がそれのみで芽吹くことはあり得ない。(178)

監禁から解放されてから、本当の恐怖が始まる。「少女の内部にある現実」を少女は受け止めることができない。周囲の好奇の視線は「少女の内部の現実」へと無遠慮に注がれるが、その視線が少女に集中することで、少女は「自分自身の外側の現実」も失うことになる*1。「現実」は決定的に失われ、「想像」(夜の夢)だけが辛うじて、「現実」への通路として残される。
「解説」で斎藤環が二つの謎を示しているが、大胆な構成にもかかわらず、なんとも異様に謎めいた印象が残る。こわいよう。

残虐記 (新潮文庫)

残虐記 (新潮文庫)

*1:相手の瞳の中には自分の姿が映っている。ヤタベさんが配置される構図が絶妙。

神崎繁『フーコー』(NHK出版)メモ

ベンヤミンバロック解説。ギリシャ悲劇は理性と感情の対立葛藤を基本とするが、セネカのラテン悲劇においては「理性的な計略と過剰な情念の噴出」が両立する(76)。

デカルトの二元論だけがバロック的なのではない。精神と身体の干渉に関する学説の結論として、受苦〔情念〕の理論が最大の問題となる。というのも、精神は、それだけなら純粋でおのれの理を守りとおす理性であるが、しかしその精神を外界と接触させるのはただ一つ、身体の感応である以上、いわゆる悲劇的葛藤などよりも精神が受ける苦痛の暴力こそが、激しい情動の基盤と見なされて当然だったからである。(ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』353、76)

デカルトによるストア派感情論の解説。(←『省察』と全然違う)

われわれのうちにはただ一つの精神しかなく、この精神はそのうちに如何なる異なる部分ももたない。同じ感覚的なものが理性的なのであり、すべてその欲求が意志なのである。……以下略(「四体液説」に基づけば精神の二元論は錯覚)。(『情念論』)

ニーチェアフォリズム

「意志の弱さ――これは誤ってとられかねない比喩である。というのも、意志なるものはなく、したがって意志に強いも弱いもないからである。衝動が複数あり、しかもしれが分裂しているとき、それらのあいだの体系の欠如が、結果として「弱い意志」となり、何らかの一つの衝動が優位にあるときそれらは協調して、結果として「強い意志」となるに過ぎない。――前者にあっては、振幅運動と重心喪失ということがあり、後者にあっては、方向の精確さと明瞭さがあるだけである。(『力への意志』第四六節)

デカルト省察』の「対象的事象性(realitas objectiva)」。この場合、objectは「思考内容」「感覚内容」「欲求内容」という原義(「客観」なのではない)。ここから「神の存在論的証明」が導かれる。「表象」をささえる「神」は、不在のまま画面全体を支える『ラス・メニナス』の「王」の位置にある(人間の不在)。
デカルトからカントへ。「古典主義時代の思考にとって、有限性というものの内実は、ただ無限性の否定だけであった。ところが、一八世紀末に形成される思考は、有限性に積極的なものの力を付与する。」(35)。有限である人間が、その有限性において無限なるものに触れる(経験的=超越論的二重体)。元ネタはハイデガー「世界像の時代」(40)。
人間の不在/人間の終焉。独断論の微睡み/人間学の眠り、ドン・キホーテ/サド、「ラス・メニナス」/「フォリー・ベルジェール劇場のバー」。古典主義時代の「表象の世界」を打ち破る、「生命力の横溢する欲望的主体の出現」(84)。
方法論の問題。カッシーラーパノフスキー)vsハイデガー(ダヴォス対論)。メルロ=ポンティーを介して新カント派側につきつつ、「有限性」を分析するフーコー(微妙?)。
「自己知」と「自己への配慮」の区別。前者はプラトン的、キリスト教の告白、フロイトの「過去志向的な」夢解釈(102)などで、これが批判される(「自発的な監禁」(85))。後者はストア派的なものの考え方で、これによって自己を鍛錬するのがよい。
キュニコス派的パレーシアー(慣習の破壊、スキャンダル、自己との内的闘争)が素晴らしい。これがキモ。

それは、人間自らのうちに「狂気」や「獣性」という限界を見つめることによって、かえってその尊厳を確認する一つの精神の運動である。さらに、相手の自尊心に対して挑発を行い、遊戯的ななかにも、戦闘的・闘争的な要素を含む対話を重ねることで、相手のうちにも自ら自身のうちにもこのような闘争を内面化する「自己との闘争」の修練の機会を提供することである。(118)

『吼える60年代(計70分)』

カナダ・アニメーション映画名作選(A Selection of Canadian Animation: From the Collection of la Cinémathèque québécoise )

アル・センス『見聞話考夢行動映画』(1965)
THE SEE, HEAR, TALK, THINK, DREAM AND ACT FILM(25分・16mm・カラー)

次から次へとすごい速度で着想がアニメーション化されている。虫のように描かれた奇抜な姿の人間たちやネコが奇想天外に動きまわるのだが、キャラクターがしばしば銃殺されたり自殺したりして、ユーモラスだが悲痛な感じもある。表現者として精神的にだいぶ危ない感じだったが、個人的にはとても癒された。戦争批判のメッセージ性も色濃い(DEWライン?)。

アーサー・リップセット『たいへん素晴らしい』(1961)
VERY NICE, VERY NICE(7分・16mm・白黒)

写真と音楽のコラージュ。都会。音楽はジャズっぽい感じ。

ノーマン・マクラレン、イヴリン・ランバート『垂直線』(1960)
LINES &; VERTICAL (LIGNES VERTICALES)(6分・35mm・カラー)

ノーマン・マクラレン、イヴリン・ランバート『水平線』(1962)
LINES &; HORIZONTAL (LIGNES HORIZONTALES)(6分・35mm・カラー)

画面の分割線が動き出して、すごい勢いで動き回る。目が回るので、ほとんど目をつぶっていた。ノーマン・マクラレンという人はマクルーハンの影響を受けた人みたいだが、マクルーハン的に言うと、触覚が刺激される感じだろうか?しかし意外と楽しい。

ピエール・エベール『オプ・ホップ―ホップ・オプ』(1966)
OP HOP – HOP OP (4分・35mm・白黒)

黒い地に白い図像がパチパチと表示され、目がぱちぱちして辛いので、ずっと目を閉じていたのだが、それでも水晶体が透けて見えるような異常?を感じたので、閉じた目のうえにさらに手をかざして、万全の態勢をとった。

レス・ドゥルウ、カイ・ピンダル『なにが起こってるだ!』(1966)
WHAT ON EARTH!(10分・35mm・カラー)

これは楽しいアニメ。火星人が地球にやってきて、あふれかえる自動車を知的生命体として誤認する。ジェットコースターみたいに動き回る自動車の描写がおもしろい。人間は寄生虫扱いされる。

ライアン・ラーキン『散歩』(1968)
WALKING(EN MARCHANT)(5分・35mm・カラー)

水彩画で描かれた人が歩き回る。音楽が良いので、気分がいい。

ノーマン・マクラレン『シンクロミー』(1971)
SYNCHROMIE(SYNCHROMY)(7分・35mm・カラー)

音楽もノーマン・マクラレンが担当しているのだが、シンセサイザーを使った音楽がなかなか素晴らしい。これもほとんど目をつぶっていた気がする。