モンテスキュー

科学としての社会学モンテスキューから始まった、とDurkheimは述べている。かれは「現実に存在するものについての記述とその解釈を除けば、科学の目的とするところは何もない」「社会科学が成立するためには、何よりもまず、一定の対象を定めるということが必要である」と述べつつ、そのような社会科学がこれまでほとんど稀であったことを指摘している(7)。

一見したところ、この問題の解決ほど容易なことはないように見える。社会科学は、社会的事物、すなわち、法、習俗、宗教などを対象としているのではなかろうか。しかし、歴史を回顧してみると、ごく最近まで哲学者のうち誰一人としてそうは考えなかったことは、明らかなことである。哲学者たちは、すべては人間の意志によって存在するものだと考えていて、それらの事実が自然に存在する他の事物と同じく、固有の特性をもち、したがって、この特性を記述し、解釈することのできる科学を必要とする、真の事物であることを理解しなかった。彼らにとっては、構成されている社会の中に、人間の意志が目的として実現すべきであるとしていたこと、あるいは避けるべきであるとしていたことを、探究するだけで十分であると考えられた。だから、彼らの探求していたのは、社会制度や社会的事実は何であり、それの本質や起源が何であるかではなく、それらがどうあるべきかということであった。(8)

「どうあるべきか」という効用に導かれ、さしあたっての社会の解釈をおこなうのは、Durkheimによれば「科学」ではなく、「術」である。「科学が術と異なるのは、科学が全く独立なものであり、つまり、その効用について煩わされることなく、それを知るためにのみ、一定の対象に適用されるという条件において、その固有の本性に忠実である限りにおいてなのである」(12)。またこのとき、科学が対象とすべき素材は、一定の「類型」を備えている必要がある。科学は現実を記述するが、記述すべき特性が限定されていなければ、記述は無際限に膨らんでいってしまうだろう。したがって社会科学は、類型のなかの諸要素を記述するとともに、その因果連関の系列を配置することを試みるものなのである(=「解釈」)。
モンテスキューは、このような社会科学の原則を最初に意識した人物だった。じつはモンテスキューも、従来の哲学者の慣習にしたがい、人間の本性を「自然状態」「自然法」などの用語で表現しているのだが、かれは他方で、社会的事実が人間の本性とは無関連な特質を持っていることを十分に自覚していたのである。

社会にかかわる法についていえば、彼はそれをさきの自然法と厳密に区別し、これに特別の名称を与えている。というのはそれは人間の本性から演繹することはできないからである。これが彼の著書において問題となった法則であって、彼の企てた研究の真の目的はここにある。これらの法とは、国際法…、市民法、政治法であり、人間社会の主要な制度のすべてである。……彼によると、それらは人間の本性からではなく、社会の本性に由来するものなのである。それらの原因は人間の精神の中にではなく、社会生活の条件の中に求められなければならない。……もちろん、社会は諸々の個人だけから構成されているのであるから、社会の本性も一部分は人間の本性に依存する。しかし、社会が違えば、人間自身も異なるのである。人間は同じ心性をもつのではない。人間は君主政、民主政、専制政によって同じ願望をもつことはない。(26−27)

モンテスキューは、社会を「共和政(貴族政・民主政)」「君主政」「専制政」の三つの類型に区別した。共和政として想定されたのは、古代ギリシャ・古代イタリアの都市国家および中世イタリア都市である。君主政には近代ヨーロッパの諸大国、専制政にはトルコ・ペルシャ・アジアなどの東方諸国が想定された。それぞれの特徴についての詳細は省略するが、ここで重要なのは、こうした類型が「社会の容量」の違いによって導かれているということである。

 実際、狭い領域内に閉じこめられた一つの社会を仮定してみよう。そこでは、共同体の問題をたえず眼の前に見、その全体を心に思い浮かべない人は一人もいない。さらに、このような社会では人びとの多様化の余地はないから、ほとんど全員の生活条件は同一であり、生活様式も全く異なることはない。権力を保持している人でさえ、社会の限界に応じて限られた力しか付与されていないから、「同輩中の第一人者」であるにすぎない。祖国の像はたえず全員の心に植えつけられているばかりか、それは他の観念によって制限されていないから、きわめて巨大な影響力をもっていた。この記述によって、われわれは共和政を認識するのである。しかし、社会の規模が大きくなると、すべては変化する。なぜなら、個人としてみられた各市民には公共善について意識をもつことはより困難となってきて、社会の諸々の利益はほとんど小部分しか認めなくなるからである。他方、環境はずっと多く分化してきているため、個々人はばらばらの方向に向かい、相対立する目的に志向するようになる。そればかりか、主権もきわめて大きくなるので、これを行使する人は、他の人びとを高所から支配する。それ故にこそ、社会は必然的に共和政から君主政へと推移する。ところが、その容量が中程度でなく、あまり大きくなると、君主政は専制政に変わっていくのである。なぜならば、巨大な帝国は、君主が巨大な領土に散在している人びとを統一して維持できるだけの絶対的権力をもたなければ、存続できないからである。社会の本性とその容量との結びつきは非常に緊密であるから、人口が増加しすぎたり、あるいは反対に減少しすぎると、各社会に固有の原理は破壊されてしまう。(46−47)

これが『社会分業論』に重要な着想をあたえていることは明らかであろう。すばり、モンテスキューはDurkheimの元ネタだったのである。
さてDurkheimは、モンテスキューの独創性を高く評価する一方で、その中途半端さについて徹底的に批判も加えているのだが、そのなかから「病気も正常のうち」というテーゼを導いている*1モンテスキューは、「事物の本性」と「正常な形態」の間に「論理的な関連」があると考えた。だがそうすると次に、社会のうちに含まれる「誤謬」がどのようにして生じるのかを説明しなければならなくなる。そこでモンテスキューは、それらの誤謬が「突発的」なものとして生まれるのだと考えた。Durkheimは、次のようにモンテスキューの理説を整理する。

……人間や民族が彼らの本性から決して逸脱することはないということが真実であるなら、彼らはつねに、またどこででも、そのあるべき姿をとることになるであろう。ところで、個人の生活にも、社会生活にも、多くの不完全な点がある。立法者の誤りによって社会がうけとった不正な法や欠陥の多い制度がそうである。これらすべては、モンテスキューが、人間には自然の法則から逸脱するある種の能力があるとみたことを示しているように思われる。しかし、それはこれらの事実には原因がないという理由にはならない。ただ、その原因は偶然的なもの、いわば「突発的」なものである。それ故、それらの原因は法則に従うものとすることはできない。事実、それらは法則が表現している事物の本性をそこなうものなのである。(55)

しかし、この引用に再現されているモンテスキューの考え方は、徹底しておらず、誤りを含んでいる。というのも、個人の本性とは無関連に社会的事実が構成されているのであれば、「誤謬」をめぐる社会的事実だけが個人の本性から導かれる(=「立法者の誤り」)というのは、明らかに矛盾した主張だからである。これについてDurkheimは、「これらの誤謬は、……社会組織の病気以外の何ものでもない。しかし、病気もまた健康と同じく生物体の本性の一部をなすものである」と主張している(55−56)。
さらにDurkheimは、モンテスキューにおいて、彼の方法論が新しいものを志向しつつも、「演繹法」に偏りがちであったことを批判している。

……それにまた、モンテスキューの証明そのものを検討してみると、その重要性はすべて演繹法にあることに容易に気づくのである。もちろん、彼は大部分の場合、その導きだした結論を観察によって確認している。しかし、彼の議論の中でこの部分全体が貧弱なことであろう!彼が歴史から借りて報じている諸々の事実は、ごく簡単に要約して述べられていて、反論の素材を提供できるものでもなく、またそれらを現実にあるがままに明らかにすることにはあまり多くの関心が払われてはいない。(63)

「わが著者は新しい道を切り開きはしたのだが、今まで踏まれた道を放棄しきれなかった」と指摘するDurkheimは、「モンテスキューは、ベーコンがのべたように、事物の繊細さがどの程度人間精神の繊細さにまさるものであるかも十分理解しなかった」としている(64−65)。社会的事実の固有性を認めたモンテスキューであったが、社会科学がただ「現実を知らんがため」にのみ探究されるべきだという徹底性にまではいたらなかったのである*2。だがいずれにせよ、Durkheimの「社会組織の病気」に関する機能主義的見方や「帰納法」への着目などは、こうしたモンテスキューの批判的読解のなかから把握されたものだったとはいえそうである。
なお、Durkheimはさらに、モンテスキューによる社会種の区別は共時的な構造として捉えられているが、じつはそこには「進歩」の観念が抜け落ちているのだとの批判をしている。が、最後にはやはり、モンテスキューの偉大さを強調しまくって終わっている。そこで私が気になるのは、モンテスキューとDurkheimの間にある断絶である。もしかするとDurkheimの「社会」認識は、マルクスがそうであったように、「デカルト以来の社会観」を超克するものではなかっただろうか。これは、Durkheimの「社会的事実」が、かれ特有の言語認識によって支えられていることから思いついた妄想なのだが、いずれ敷衍したい。

*1:他にも、法と習俗を区別することによって「立法者」の役割を重くみるモンテスキューを批判している箇所がある。Durkheimによれば、法も社会的事実に含まれるべきものであって、立法者はせいぜい、社会的事実によって導かれる法を制定する「用具」であるにすぎない。

*2:なぜモンテスキューは「演繹法」を用いたのか。それもやはり、モンテスキューが「事実の本性」と「正常な形態」に「論理的な関係」を見たことと関連する。モンテスキューは、「事実の本性」は「正常」であるがゆえに、そこに「論理的な概念的関係」を見出すことができると考えた。したがって、先験的な演繹的思考によって、かなりの程度「事実の本性」を構成しうると考えたのである。