鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980)

帰死願望とそれが抱える逆説の物語と見た。大傑作。

(145分・35mm・カラー)日活退社後、映画作りの拠点を失った鈴木清順が、幻想的な作風を前面に押し出し、新たな形でその美学の復活を告げた傑作。日活撮影所での永塚・木村とのコンビネーションが再現され、サラサーテのSP盤レコードの音色を仲立ちとして、極彩色の“反=物語”が展開される。
’80(シネマ・プラセット)(撮)永塚一栄(監)鈴木清順(脚)田中陽造(美)木村威夫、多田佳人(音)河内紀(出)原田芳雄大谷直子藤田敏八大楠道代、真喜志きさ子、麿赤児樹木希林佐々木すみ江山谷初男玉川伊佐男

死=狂気の世界、生=正気の世界。二つの世界を跨って二人の男がいる。一人は軸足を死の世界に置き、もう一人はそれを生の世界に置いている。
死の世界から見れば生の世界の約束事など茶番でしかない。よって生の世界の茶番はしばしば転覆される*1。とりわけ象徴的な境界性は鎌倉の切り通しを舞台に示されている。
だが、二人の男が二つの世界の境界線を跨ぐのはどのような理由によるのか。おそらくそれは帰死願望に由来するものだろう。死の世界に軸足を置く男は、血を飲み込んで桜色の骨と化した男の話に異常な過敏さを示す。一方、生の世界に軸足のある男は、緩慢で間延びした死の甘美さを享受するかのようだ。二人の死への姿勢は、急かれたような鈴の音と、薄暗い日本家屋のなかに鳴り響く時計の鐘の音とによって対照されている。
とはいえ、この死に付与されたロマンティシズムは逆説を孕むものでしかないものだ。死にロマンを見出すのは生者の側の視線だからである。一旦、死の世界に両足を移したなら死はもはやロマンティシズムの対象ではありえない。
死と生との境界を行き来する男たちに対して女たちが体現するのが、生によって死を矮小化しない、狂気と正気の往還についての新たなあり様である。白骨は桜色とはならない。生も死も無化された地点からは、観念的な生など、生に値いしないのだ。
二人の男と一人の女という三者関係の反復によって、異様な感情を喚起させてくれる、素晴らしい映画だった。双葉十三郎氏の評。

……時代は昭和初期。インテリの藤田敏八と妻の大楠道代、藤田の友人の原田芳雄と妻大谷直子という二組の奇妙な交流が、録音のときの雑音が演奏したサラサーテ自身の声ではないかと思われている「ツィゴイネルワイゼン」のレコードの貸し借りを主軸にして描かれていくが、この間に盲目のいような旅芸人が登場したり、自然主義的な現実の風景はあるものの、ほとんどが常識を超えた想念と幻覚的映像の世界で、わかろうとしてもわからないところが多いのにぼくは酔わされたような気分にさせられた。色彩の使い方も含めて、これぞ清純美学の結晶というべきか。

なお、素晴らしい映画だったので余韻をたっぷり味わうつもりが邪魔が入ったのは自分の不覚とはいえ残念だった。

*1:モチーフ的にも映像的にも親近性のある(ように思える)北野武は生の転覆をしばしば突発的な暴力によって描写するが、本作では後述のように女を交えた三者関係が描かれている。タナトスのロマンティシズムを自ら嗤う批評的視線が交えられているといえそうだ。