亜細亜主義について――松本健一『大川周明』

松本健一大川周明』(岩波現代文庫)、読了。
大川周明は1986年(明治19年)、山形県庄内地方に生まれた。石川啄木と同年の生まれである。ここで石川啄木を迂回しつつ、大川について考える材料としてみたい。石川の次の有名な詩句は、明治の青年が置かれていた精神的状況を如実に物語っている。

東海の小島の磯の白砂(しろすな)に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる(『一握の砂』)

この句からは、国家に有為な人物たるべく教育を受けた明治の青年の立身出世への欲望と結びついた強烈なナショナリズムがうかがえる。日露戦争後、青年らの内面的エネルギーは、国家システムの成熟によって行き場を失っていた。そうした社会条件にあって、青年の自意識は、自己の内面へと駆り立てられていく。石川は『時代閉塞の現状』において、青年の「盲目的反抗」を次のように論じる。

我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行亘っている。現代社会組織はその隅々まで発達している。….…かくのごとき時代閉塞の現状において、我々の中最も急進的な人達が、いかなる方面にその「自己」を主張しているかは既に読者の知るごとくである。実に彼等は、抑えても抑えても抑えきれぬ自己そのものの圧迫に堪えかねて、彼等の入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向かって全く盲目的に突進している。(259−260)

また明治の青年は、近代化のなかで失われゆく故郷のさまざまな事物について、哀惜の念をも募らせていた。

ふるさとに入りて先ず心傷むかな/道広くなり/橋もあたらし(松本113)

さて松本は本書において、アジア主義および農本主義が出現した背景に、以下のような大衆的エートスの存在を見ている。

……日本が近代化するということは、簡単にいってしまえば、対外的に西欧化し、対内的には都市化するという道すじである。そして、その道すじは、この近代化を根底で支えてきた大衆のエトス(生活的な感情)に、西欧の対極に位置する「アジア」と都市の対極に位置する「農村」とに対する懐かしさと後ろめたさの感情を残存させたのだった。その大衆のエトスから、近代化に対する反作用として、アジア主義農本主義という思想潮流が発生したのである。(32)

もちろん、アジア主義を「大衆的エトス」の結果として見るためには、その「大衆」性の中味をさらに検討しなければならないだろう。しかしいずれにしても、そうした大衆のなかから出現した青年層こそが、石川啄木のように強固なナショナリズム意識および近代化の負の側面への意識を、はじめて自覚することになったのである。そしてこうした精神的環境のなかから、大川周明らのアジア主義(あるいは農本主義を含むファシズム一般)も生まれてきたと考えてよい。
それはすなわち、次のようなことである。
アジア諸国のなかで唯一、近代化=西欧的模倣を成しとげた日本は、そのナショナリズムを世界史的連関のなかにどのように位置づけるかという課題に直面することになった。西欧的模倣に飽き足らない心性は、失われゆく故郷への郷愁とともに、たんなる西欧化ではないアジアの固有性を求める志向性を生み出した。このように近代日本の意味が再吟味されるなかで、アジア主義の思潮が生起していったのである。
アジア主義の思想的可能性について、私になりに整理すれば、以下のようにまとめられるだろう。
これまで猶存社*1などのアジア主義の主張は(猶存社では、満川亀太郎北一輝大川周明ら)、丸山眞男近代主義者らの「超国家主義」的ファシズム分析によって理解されるか、安易な「右翼」レッテル貼りによって矮小化されるか、のいずれかであった。
後者から検討する。「反共」という政治的立場の反作用としてアジア主義を理解するのみでは、その思想的可能性を汲むことはできない。じっさい北一輝などは、天皇を小馬鹿にする言動を取っており、「国民の天皇」としての政治利用が目的であったにすぎなかった。また大川周明は、猶存社のなかでも「皇室中心主義」的特徴が濃厚であったが、それとて日本の近代化における精神的原理として天皇が必要になると考えられていたからにすぎない。

大川の考えによれば、明治維新とは、天皇という「原理」を掲げた一見復古的な原理主義革命であるとともに、天皇みずから国民的な英雄となって強力に推し進める近代の民族主義革命でもあった。……狭義の明治人というのは、憲法勅語も議会も戦争も、ひいては明治国家を天皇とともに作り上げた、というアイデンティティをもっていた人びとのことである。大川はその意味での明治人であった。(162)

大川周明の場合、社会主義者を白眼視することなどもなく、「日本的なる国家社会主義」という構想において、むしろマルクスから佐藤信淵(のぶひろ)へというルートをたどっていた(125)。また大川が猶存社の同人として社会改造の必要を自覚するに至ったのは、第一次世界大戦後の米騒動あたりをきっかけとしていたが、その際の問題意識は幸徳秋水らの「平民社」の認識ともそれほど隔たったものではなかったと思われる。大川は米騒動に関し、「国家が軍を海外に出す時に、米価が高いからといつて暴動を起し、またもそれが全国数十箇所に拡まるといふことは深刻なる暗示を国民に与へるもので、日本国家はこのままでは不可といふことを示す天意と私には考えられました」(123)と語っているが、そこでの状況認識は、社会主義者らと共通する課題意識を抱えていたと言ってよいだろう。ただ大川の場合、「国家が近代の民族国家として自立するためには、それを支える国民と、その国家の中枢に民族の道徳的中心=天皇があるべきだ」と考えており、その点が社会主義者と異なっていたといえるのである(141)。(もちろん、大川の思想は、狂信的な天皇崇拝ではまったくない。)
すなわち、戦後のイデオロギー体制の内部で通用する「反共」=「右翼」図式にもとづき北一輝大川周明らを位置づけることは、歴史的にみてあまりにも浅薄な見方だということである。この意味で、これらの議論はすべて深さを欠いているのである。
では、もう一方の議論はどうだろうか。「右翼レッテル」論と比較すれば、丸山眞男近代主義者のファシズム分析ははるかに内在的分析を提供しうるものといったんは評価できる。しかしながら彼らの議論にも、以下に見る限界が存在している。
たとえば丸山眞男は、「日本ファシズムの思想と運動」(『現代政治の思想と行動』)において、ファシズムの特徴を「家族主義的傾向」、「農本主義的傾向」、「大亜細亜主義に基くアジア諸民族の解放という問題」の三つに集約し、その社会的担い手が「擬似インテリゲンチャ」(小工場主、町工場の親方、学校教員…丸山63参照)だったと結論づけている。すなわち、擬似インテリゲンチャが近代的主体性を持たず、それゆえ「無責任の体系」「抑圧委譲の原理」(この論文中では使っていない言葉だが)を醸成させていったために、「小天皇的権威をもった一個の支配者」「いとも小さく可愛らしい抑圧者」(丸山66)としてのファシズムの担い手が生まれた、というのが彼の論旨となる。
もちろんこれはこれで一定の分析なのであるが、しかし丸山は続けて、右翼思想家も擬似インテリゲンチャと同じく「『近代』の洗礼をうけたものが殆ど見当たらない」「どう見たつて『近代的人間類型』には属さない」と言明する(丸山83)。これは大いに問題とすべき認識である。たとえば丸山は、北一輝の思想のなかに、次のような「家族主義的傾向」を見出すのである。

……最も中央集権的色彩の強いかつ最もヨーロッパ的国家主義の臭いのする北一輝の「日本改造法案」においてもやはり日本は「有機的不可分なる一大家族なり」ということをいつておりますので、その点は日本ファシズムの全部に共通しております。(丸山43)

丸山は「家族国家という考え方、それから生ずる忠孝一致の思想は夙に明治以後の絶対国家の公権的イデオロギー」(42)と述べる。だが、これは明白な誤りである。なぜなら、そうした忠君愛国的イデオロギーは、おそらく大逆事件以後の明治末年あたりから浸透しはじめるのであり、北一輝大川周明がそうした家族国家的イデオロギーを相対化しうる歴史的位置にいたことは、ほぼ疑えないからである。
つまり、北一輝あるいは大川周明らのアジア主義は、かれら自身によって洗練された思想的課題において、あえて主体的に選びとられたものだと考えなくてはならない。さらにいえばアジア主義の思想的可能性も、この点においてこそ見出されなくてはならない。
丸山は故意にか、無意識にか、この点について見落とすことになった。それは、彼によってファシズムの三番目の特徴としてあげられている「アジア主義」の説明が、きわめて少ない分量でしかないことにもあらわれている。いずれにせよ、アジア主義の可能性は、戦後の近代主義啓蒙思想の圏内では捉えきることが出来ないのである。
では、大川や北らのアジア主義は、今後どのような意義をもちうるといえるのか。本書を読んでください、としか言いようがない部分もあるが、以下、略述を試みておこう。
冒頭、石川啄木の引用によって示唆しておいたとおり、アジア主義が引き受けた基本的な問題関心は、日本の近代化をどう評価するか、という点に集約されるといってよい。松本は、猶存社における大川ら三者の思想的独自について、こう説明する。

それまでの、つまり満川・大川・北の盟友関係より以前のアジア主義者=大陸浪人が、そのアジア主義を日本とアジア(とくに中国)との関係においてのみ展開していたのに対して、満川・大川・北は世界史的連関を考えたのである。それはもちろん、日本が第一次大戦に参加し、ロシア革命をもふくめた世界史のなかに投げこまれたということの波紋を思想的に捉え返した、ということもできよう。/かれらが明治末年の青年として思想形成を行ないながらも、昭和の思想家として浮上するのは、このためである。(274)

すなわち彼らが見ていたのは、孫文が「東洋の王道文化か、西洋の覇道文化か」と日本人に二者択一をせまったときに見たのと同様の世界史的課題であり、換言すれば、日本がひたすら西欧を模倣した結果、何を達成したのかということの思想的評価であった。彼らにとって、西洋の帝国主義は、ヨーロッパの個人主義的(功利主義的)哲学認識によってもたらされるものであり、それは思想的次元において、本来対決されるものでなくてはならなかったのである。大川周明の場合だと、そこでアジア主義の立脚点となりうるものは、日本的なるものであり、あるいは、インドの独立運動(とりわけガンジー)やイスラム教思想であった。
言うまでもなく、彼らのこのような思想が、丸山の指摘する「空想的」「観念的」な性質を帯びたという疑いを拭いさることはできない。とはいえ、丸山には見えなかった重大な問題を、大川らが確実に把握していたこともまた十分に確かなことである。丸山の述べる「近代的主体性」なるものは、所詮、国民国家レベルでの合理性にすぎないものであり、事実、戦後の啓蒙主義近代主義者は、アジアの問題について一顧だにしなかった。日本は近代化に成功したが、その反面、もともと保持していたはずのアジア的連帯意識をみるみる忘却し、それは戦後においていっそう顕著な現実となっていったのである。そこで見落とされることになった思想的課題についてアジア主義がきわめて正当に取り組んだという事実、おそらくこの事実は、真摯に受け止めるべき意味を持っているはずである。
もちろんアジア主義には問題が存在する。アジア主義は、アジア的連帯などというテーゼを掲げるばかりに「遅れたアジアをどのように連帯させるのか」といった課題に直面せざるをえないが、そのことの必然的帰結として、アジア諸国にパターナリスティックな介入を試み、結果として、連帯の名のもとに「侵略」を肯定しかねない危険までをも孕むことになったからである。福澤の「脱亜論」を想起してもよいだろうが、こうした忌まわしき感情が、アジア主義にはまとわりついている。
だがしかし、近代を引き受けることの意味を、個々人の生き方の次元で吟味する、という思想本来の働きを認めるならば、おそらく北や大川の思想的営為には、しかるべき敬意があたえられて当然であるだろう。たとえ、それが侵略戦争という危険性を含んでいたのだとしても、それは彼らの思想に問題があったというより、彼らが直面した時代状況の方に、そうした難しさが含まれていたのだと考えるべきなのである。
補足をいくつか。アジア主義を語るうえでは、日本浪漫派との異同をきちんと押さえておくことが重要である。司馬遼太郎井筒俊彦などは、大川周明ロマン主義者だと考えていたらしい。だが、松本説ではそれは少し違うということで、私もそれに同意したい。たとえば、日本浪漫派、萩原朔太郎『日本への回帰』はこんな調子である。

かつて『西洋の図』を心に描き、海の向こうに蜃気楼のユートピアを夢見て居た時、僕等の胸は希望に充ち、青春の熱気に充ち溢れて居た。だがその蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し回って、結局やはり祖国の日本より外にはない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、電車を走らし、至る所に俗悪のビルディングを建立して居るのである。僕等は一切の物を喪失した。(74)

要するに、イロニーなのである。萩原と保田與重郎とは少し違うところもあると思うが、アジア主義者らと日本浪漫派の明確な違いは、日本浪漫派が想像や詩の世界にすぐに逃避してしまうのに対し、アジア主義者はあくまでも理知的に現実への働きかけを志向する点にある。ふと思い出したが、萩原朔太郎などは、田端あたりの文士村で無理やりダンスパーティーなどを開き、結局妻に逃げられたりとかしていたが、そういう情けなさというのは、革命家にはあまり見られない。そういう意味では、個人的に、社会思想への関心も高かった石川啄木がもし長寿をまっとうしていたならば、どのような思想的遍歴を辿っただろうかということが気になったりする。
ということで、だいたいのことは語ったと思う。書くのに二時間半もかかったよ。やめときゃよかったと思わないでもないが、まあ、しかたがない。ほかに面白かったのは、大川が生まれた庄内藩では西郷思想がきわめて影響力をもっており、大川もその影響を受けたこと、北と大川が喧嘩する顛末とその後の友情、安岡正篤が小粒だと松本健一が断言していたこと、汪兆銘政権の歴史的意味、大本営は「太平洋戦争」にするか「大東亜戦争」にするかで迷っていたこと、「魔王」北がかなり茶目ッ気がある人物であると感じられたこと、など。

大川周明 (岩波現代文庫)

大川周明 (岩波現代文庫)

*1:系譜的には、大日本社→老壮会猶存社。265参照